史上最高額の真珠!落札額は41億円!
2018年オークション界最大の話題をさらった、ブルボン王家とつながりのあるパルマ公爵のコレクション。
100点もあるコレクションのトータル売却益は60億円(53,535,375スイスフラン)に上り、ロットナンバー91~100を占めたアントワネットゆかりのジュエリーがその売り上げの大半を占めました。
なにしろ、出品リスト最大の目玉と呼び声高かった直径約26ミリもの巨大真珠と大粒ダイヤのジュエリーだけでも落札金額は41億円!
故エリザベス・テイラーが所有していた「ラ・ペレグリナ・パール」を抜き、真珠のオークションとしては過去最高額を記録しました。
今回のようにアントワネットゆかりの宝飾品をはじめとした品々は、時折オークションの場に登場します。
革命期の混乱時に多くの品が流出し、もはや人々の前に姿を見せることはないはずだったジュエリーがなぜ再びあらわれたのでしょうか。
その陰にはフェルゼン伯、ジャルジェ将軍(ベルサイユのばらではオスカルの父親として登場)ほか、アントワネットを支えた人々の努力がありました。
今回はなぜアントワネットのジュエリーがよみがえることができたのか?
その背景を中心にお伝えします。
あの「ラ・ペレグリナ・パール」を超えた!アントワネットの巨大パール
今回真珠のジュエリーでは史上最高落札額を41億円で更新した巨大パール。
もともとはイヤリングとセットでつけるようになっていて、幸福だったころのアントワネットが身に着けた肖像画が残されています。
そしてそれまで真珠のジュエリー史上最高額を記録を保持していたのが故エリザベス・テイラーが所有していた「ラ・ペレグリナ・パール」です。
ベラスケスも描いたラ・ペレグリナ・パール
ラ・ペレグリナ・パールは、彼女が2度結婚した俳優リチャード・バートンから贈られた16世紀の巨大真珠です。
大粒ダイヤモンドの顧客リストに上る世界の大富豪の中でもトップにいたとされる、エリザベス・テイラーのジュエリーコレクションの中では異色の存在でしたが、アントワネットジュエリーに引けを取らない来歴を誇ります。
スペインのフェリペ2世、イギリスのメアリー1世、ナポレオン三世ほかヨーロッパの王侯貴族たちの胸を飾り、スペインの巨匠ベラスケスが17世紀に描いたフェリッペ3世の妻マルガリータ女王の肖像画に残されています。
ラ・ペレグリナ・パールは9億円で落札
ヴァン・クリーフ&アーペルに特注してネックレス仕立てにされたラ・ペレグリナは、2011年サザビーズオークションにて1184万ドル(当時レートで9億円前後)で落札されました。
この時マークした史上最高額は、そのわずか7年後に4倍以上の価値で落札されたアントワネットジュエリーによって塗り替えられることになります。
しかし、アントワネットが遺したジュエリー、宮廷の調度品などの貴重な品々の数々はほとんどが革命軍の手によって強奪され、国内外に流出してしまったはず。
なぜパルマ家はアントワネットジュエリーを受け継ぎ今日に至るまで保有することができたのでしょうか。
なぜアントワネットジュエリーが受け継がれることが可能だったか?
フランス革命前後の激動の時期、特にルイ16世国王夫妻が処刑後はベルサイユ宮殿内の調度品やアントワネットの持ち物は強奪の限りを尽くされました。
なぜ、今回のオークションで出品されたジュエリーが危機を逃れることができたのは、女王アントワネットの子供たちの未来を守りたいという母としての必死の願いがあったからなのです。
子供たちの未来のために!アントワネット秘密の手紙
フランスの国立公文書館では、アントワネットが遺した手紙類が保管されています。
これらの手紙はアントワネットとルイ16世の親類にあたる一族、忠臣達、そしてフェルゼン伯の妹ほかの親族によって受け継がれていました。
迫りくる革命のうねりに逆らい続けた生まれながらの女王アントワネットですが、その一方状況を冷静に見据える判断力も備えていました。
万一の時に備えジョセフ2世はじめ実家ハプスブルク家、スウェーデンやロシアの権力者、そして先に亡命した忠臣達と監視の目をくぐりながら秘密の手紙のやり取りを続けました。
それらは巧みに帽子の裏地に縫い付けられ、あるいはシーツなどのリネン類の束、時には手袋の中に滑り込ませていました。
そしてさらにレモンのしぼり汁を使ったあぶり出しの方法によって書かれていたことで、秘密は守られ続けられることができたのです。
そしてマリーテレーズから王家ゆかりの一族へ
アントワネットは宝石類を信頼できる人々に委託し、自分たちの身に何かあった時には子供たちに渡してもらえるように頼んでいました。
それらのほとんどはアントワネットの死後にオーストリアのハプスブルク家宮廷に集められ、ただ一人生き残った娘マリーテレーズ(マダムロワイヤル)に託された後、彼女の死後に親類一族の手元に残ることとなったのです。
アントワネットの遺産を娘マリーテレーズのもとへ!フェルゼン伯の奮闘
アントワネットが彼女の愛する娘のために遺したいと切に願った膨大なジュエリーコレクション。
実際にマリーテレーズが受け取ることができたのは、かつての恋人フェルゼン伯の尽力あってこそでした。
ハプスブルク家とブルボン家の膨大なジュエリー
とかく浪費家のイメージがまとわりつき、アントワネットのジュエリーはすべて彼女が国民の税金からあがなったものと思われがちですが、母親である女帝マリアテレジアはじめハプスブルク家から受け継いだもの、また嫁ぎ先ブルボン王家から受け継いだ宝飾コレクションもまた膨大なものでした。
その所蔵品の全容を知ることはもはやかなわないことですが、ヨーロッパきっての名家であるブルボン王家、ハプスブルク家の直径であるフランス女王のジュエリーコレクションの規模は、現代の私たちには想像を超えたスケールだったことは間違いありません。
その証拠にアントワネットが親族や中心に預けた宝飾品の価値は大変なもので、実家のハプスブルク家ですらこれらの財産を独占するために画策するほどの豪華さでした。
アントワネットの残したジュエリーをマリーテレーズへ!
そしてアントワネットの遺した財産を集め、オーストリアに運んだのがフェルゼン伯を中心とした忠臣達でした。
そして、時のオーストリア皇帝フランツ二世に談判し、フェルゼン伯はマリーテレーズの所有権を認めさせ彼女の持参金にするという回答を得ることに成功したのです。
フェルゼン伯とアントワネットが最後に会ったのは、アントワネットが亡くなる前年1792年2月14日のこと。
最後のその時までアントワネットがフェルゼン伯に頼んだのは愛する子供たちのことだったでしょう。
アントワネットが遺したジュエリーを眺めていると、もう二度と会えない愛する女性のために全力を尽くすフェルゼン伯の決意が伝わってくるようで胸を打ちます。
「Tutto a te me guida なべては我をおん身にみちびく」
フェルゼン伯がアントワネットから最後に受け取った指輪のいきさつは、ツヴァイクの伝記に残されています。
国王夫妻の忠臣ジャルジェ将軍から、彼の紋章そして「Tutto a te me guida なべては我をおん身にみちびく」が刻印された指輪を受け取ったフェルゼン伯。
これがタンプル塔に幽閉されたアントワネット、生涯結婚することなく愛情をささげた人からの最後のメッセージとなりました。
結局アントワネットとフェルゼン伯の恋は本物だったのか?
2016~2017年にかけて、東京・六本木ヒルズにある「森アーツセンターギャラリー」で、ヴェルサイユ宮殿監修による「マリー・アントワネット展美術品が語るフランス王妃の真実」が開催されました。
「きっと、誤解に気づく」というコピーと、美しく輝いていた時代の微笑むアントワネットの肖像画に心惹かれた人は多いのではないでしょうか。
アントワネットという人物について、様々な歴史的検証がなされる中、研究者たちが大きな興味を抱くのはやはりフェルゼン伯との関係でした。
彼らは真に愛し合っていたのか?恋愛関係にあったとするのならばプラトニックな域を超えたものだったのか?
手紙に隠された真実の愛
結論から言えば、アントワネットとフェルゼン伯がともに相手に強い愛情を持ち、お互いの気持ちを確かめ合っていたことは、これまでの研究で分かっています。
まず最も大きな証拠となったのが、1792年1月4日付のマリー・アントワネットからフェルセンへの手紙にある、
「あなたを狂おしいほど愛しています。一瞬たりともあなたを敬愛することをやめられません」と一文です。
これまで読むことができなかった黒塗りの部分から浮かび上がったこの事実はフランス国立図書館によって大きく報道されました。
彼らの恋愛はどのようなものだったのか?
それでは彼らの恋愛はどのような形のものだったのか?
アントワネットがフェルゼン伯の子供を二人産んだとする書籍を出す歴史学者がいる一方、宮廷でよくある恋愛遊戯にすぎない、という意見もありますが別離を余儀なくされた恋人たち。
しかも、片方は悲劇的な死を迎えたフランスの女王です。
真相は永遠に謎のままでおきたい気もします。
彼らの死後200年が経過した今、私たちにわかるのは愛し合いながらも引き裂かれた恋人たち、運命を受け入れて毅然と死を迎えた恋人を見送った一人の男性の悲痛な叫びに思いをはせるだけです。
ただしルイ17世がフェルゼン伯の子供なのかについては、極めて可能性が低いようです。
サン=ドニ大聖堂に残されたルイ17世の心臓から検出されたDNAからは、ブルボン家やハプスブルク家のDNAと多数の一致を示す結果が得られているからです。
最後まで女王としての自分を貫いたアントワネット!ジュエリーだけが知る彼女の涙
女帝マリアテレジアの娘に生まれ、10代でフランス女王となったプロフィールを考えれば無理もないことですが、アントワネットは最後まで絶対君主制から民主主義へと変わる新しい時代の流れを受け入れることはできませんでした。
もし彼女が王党派としての考えを捨て、民衆の要求を受け入れる柔軟な考えを示せば、命を落とすことはなかったといわれています。
しかし、娘マリーテレーズが「尊敬せずにはいられなかった」と自伝に残すほど、毅然とした態度を貫いたアントワネット。
感情をあらわにすることを自らに許さず、罵られても同じ土俵に立つことなく、最後までフランス女王としてあり続けたことは、後世の画家や作家たちの作品で知ることができます。
しかしそんな彼女も、愛する家族そして最愛の恋人フェルゼン伯を思い、心の中では多くの悲しみの涙を流したことでしょう。
けれどその涙の海にひとしずく、命を絶たれたあともなお深く愛された1人の女性としての幸福。
今回落札された真珠はその象徴のようにも映ります。
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