日本は古代からものづくりの国
年配の方は日本最古のお金は和同開珎と義務教育で学習したと思いますが、若い世代は富本銭と学習しているはずです。
歴史の学習は、新しい事実によって翻されることがしょっちゅうあります。
聖徳太子のことを、現在では厩戸皇子(うまやどのおうじ)と教えているそうです。
初めて聞いた人には驚きでしょうが、今はそうなっていると言います。
今回は、和同開珎から富本銭に変わった理由を解説します。
考古学の世界でよく新たな発見が起こりますが、その発表があまり世間に注目されることはありません。
理由は、人々に関心がないからの一言につきます。
最近は歴女といって歴史好きな女性が注目されていますが、関心は戦国時代などの物的証拠が残っている時代に集中しています。
これは俗に「女性は現実的」という言葉に代表されるように、現実に存在するものに興味があるということなのでしょう。
ところが考古学で発見される古墳や遺跡は、その現場を見に行っても、男性ですらそこから古代の生活を想像するのはなかなか難しいものです。
本当に女性が現実的であれば、なおさら難しいことになるでしょう。
世間にはあまり注目されていませんが、近年、弥生時代から聖徳太子以前の遺跡や古墳からはかなりの大発見がされています。
それら遺跡に残っていたものは、私たちが多く扱う金・銀・銅などがほとんどです。
金属の成分分析を行うと、古代の日本ではさまざまなものづくりが行われていたことがわかります。
そして、考古学者たちはその技術の高さにびっくりするのです。
金糸に見る古代ものづくり大国
朝鮮半島や中国から伝わった金糸という工芸品があります。
これは金を糸のように加工した金製品ですが、単に伸ばした金を切って糸にしたものではありません。
薄く延ばした金をロール状にして糸にしています。
糸として見ているわずかな中身は、実は空洞なのです。
しかもその空洞は眼に見えるようなレベルではなく、一般的に平均で15ミクロンになります。
15ミクロンという数字を実感したことがないのでわかりにくいのですが、例を挙げれば、アルミホイルの厚さはどこのメーカーでも一律に15ミクロンだそうです。
そのくらいの空洞を作る技術が今から2000年以上前にあったわけです。
そういう技術のある日本を現在の首相が「ものづくり大国」と言うのもうなずける気がします。
古代日本の合金技術
弥生時代によく出土された、銅鐸というものを歴史で習ったでしょう。
この銅鐸の製造、使用方法にはまだ謎が多いのですが、銅鐸というだけあって材料には銅が使われています。
しかし、銅だけでは強度は維持できず、錫を混ぜて強度を維持しているのです。
このように古代社会では銅に何かの金属を混ぜ合わせて、合金によって矢じりや銅鏡などを製造していました。
現代では、出土品を電子顕微鏡やレントゲンによって解析し、成分を研究していますが、今の技術でもはるかに及ばないような技術に富んでいます。
銅や金、銀にほかの金属を混ぜ合わせて合金を製造する技術は、弥生時代からすでに日本にありました。
縄文後期や弥生初期では銅などの金属の産出技術はなく、もっぱら朝鮮や中国からもたらされたものを加工していたようです。
例えば福岡県の志賀島から出土された「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印は、当時の日本の技術にはなく、中国製の刻印とわかるような優れた技術だったといいます。
中で合金技術が浸透するようになってから、より多くの銅に何かほかの金属を混ぜ合わせた技術も発達し、大量生産ができるようになったのです。
和同開珎と富本銭の違い
和同開珎と富本銭の根本的な違いは、銅以外に含まれるほかの金属の割合や種類です。
一般的に日本で最初の通貨とされてきた和同開珎は、銅と錫の合金である青銅とされています。
これは、そのならいが中国の通貨、開元通宝が青銅である銅と錫の合金であったからです。
古来から私たちが錫と認識している金属は、白ロウ(『続日本書紀』にはこう記されている)とされていますが、最近の研究ではこの白ロウが実は錫ではなくアンチモンというほかの金属の可能性が高くなっています。
富本銭の基本的な材質は、すべて銅とアンチモンの合金なのに対して、和同開珎は初期のものには銅とアンチモンの合金が見られるが、後期のものはすべて銅と錫の合金によって作成されていることが従前の研究でわかっています。
これには理由があり、銅とアンチモンは非常に合金するのが悪く、しかも極めてセンシティブな製造方法となるので、完成品までこぎつけえる歩留まりが非常に悪いのです。
対して銅と錫の場合は、合金にするのが非常に容易であることが挙げられます。
つまり、一度作り始めるとそれが完成品になる可能性が高いことになります。
富本銭の銅とアンチモンは、合金や加工が難しいのです。
富本銭が和同開珎より古いとされる理由
和同開珎が今までに4800枚程度出土しているのに対し、富本銭は100枚程度しか出土していない事実を見ると、おそらく和同開珎は富本銭よりも後に開発された通貨であろう、というのが現在の学会での主流意見です。
この事実が、こうであろうと発見された遺跡が、1991年に発見された飛鳥池遺跡群で、ちょうど平城京近くの遺跡になります。
飛鳥池遺跡は、おそらく古墳に埋葬する金属などの加工場であり、通貨なども作っていたと推測されています。
遺跡からさまざまな古代を伺い知れる出土があり、中でも富本銭の発見とその分析によって、日本最初のお金は和同開珎ではなく富本銭のほうが可能性が高いというようになりました。
金を扱い、そして金に投資する皆さまにとっては、興味のある話ではないかと思い今回の記事を記してみました。
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