甲州(山梨)の武田氏が有名な理由
武田信玄という戦国武将を知らない人はいないでしょう。
ただ、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康のように天下を統一したわけでもなかったのに、なぜ、こんなに有名なのでしょうか?
今回はそのお話しをしてみます。
それは、武田家がものすごくお金持ちだったからです。
実は、戦国時代から室町後期にかけて日本にはものすごい鉱山ブームがありました。
当時、中でも一番金の産出量が多かったのは、佐渡の金山ではなく山梨の塩山市にある黒川金山だったのです。
参考までに、世界遺産に認定された石見銀山もこの鉱山ブームの中の一例になります。
すなわち甲州武田氏は、この金鉱山から排出される金から財政的に富み、その結果、騎馬隊に代表されるように圧倒的な軍事力を誇ったのです。
遠州の今川氏がその肥沃な土地を背景に力をつけたのとは対照的に、甲州は山岳地帯になりますので、土壌作物からの収益によっては豊かにはなれませんでしたが、金の産出によって武具や馬を購入し、力をつけたのです。
貨幣製造権を握ることが国家を掌握すること
織田信長は楽市楽座に代表されるように自由な交易を根本に財政を潤し、豊臣秀吉は朝鮮出兵からもわかるように圧倒的な軍事力により他者からの富の移転で権勢を振るうことができました。
徳川家康が安泰の政権になったのは、豊臣秀吉から金の製造、小判の製造の認可をもらい、金座を江戸に開いたからと一面的に見ることができます。
これは現代でも通じる話であり、自由な交易をやればお金が儲かる、他人から利益を奪ったとしてもそれは短期間、そして金、つまりお金の製造権を握ることが国家の掌握のためにしなければいけないこと、というのがわかります。
江戸幕府は、現在の日本政府と言っても過言ではないでしょう。
なぜなら通貨の発行権を握り、さらには参勤交代などによって幕府が崩壊しにくい体制を敷いたことが、現在の日本政府の庶民や国民に不満などを溜めさせない方策につながっているからです。
体制の転覆に細心の注意を払うことが体制を長期間維持するコツになります。
つまり、江戸時代には国家の統治(ガバナンス)の原型を日本はすでに作り上げていたのです。
武田家の通貨制度は江戸幕府にも継承された⁈
山梨県塩山市にある黒川金山は、だいたい1530年くらいから採掘が開始され、17世紀中ごろ(江戸幕府初期)まで開発された形跡があります。
この鉱山では、最初は砂金や不定形な金塊だったのですが、時代を経るごとに貨幣に近い、一般的に認知される「碁石金」という形になってきました。
これが、江戸時代の小判に代表される日本の金貨の始まりと認識されています。
そして、秀吉の天正小判や江戸時代の慶長小判のルーツは、実は武田氏の金貨がスタートになります。
その後、金の大きさによって価値を決定する貨幣制度が始まりました。
これを甲州金の四進法と呼んでいます。
「両」を基本として、その四分の一を「分」、さらに四分の一を「朱」、以下「糸目」、「小糸目」という貨幣単位が定められてきたのです。
当時は金と銀の交換レートはまだ決まってはいませんが、武田氏がこのような貨幣制度を発達させたのは注目に値をします。
この背景には、金が貨幣として流通するのに十分な量があったということです。
また、貨幣を流通させるだけの治世能力があったことを示します。
日本の貨幣制度の原型は武田家にある
俗に武田の騎馬隊と言われる騎馬部隊は、長篠の戦いにてピークを迎えます。
この戦いからは、いくら資金量が豊富であっても貿易などによって新しい知識や技術を取り入れていかなければ滅びるということが学べると思います。
武田家の貨幣制度は江戸幕府に継承されています。
江戸時代の貨幣の中心であった小判の一両、二両という単位制度は、武田家が草案したものです。
以下、両、分、朱は江戸時代まで引き継がれています。
糸目と小糸目は引き継がれていませんが、武田家の貨幣制度がいかに優れていたかを窺い知る(うかがいしる)事象でしょう。
アメリカ人はクオーターという区分が好きですが、実際25セント硬貨があり、これは人間が本能的に1/4が好きだということを示しています。
また、金、銀、銅などから合金を作る場合、たいてい25%の含有にすると合金の利便性がよいというところからきています。
日本の貨幣制度の始まりを明治時代から語る方は多いですが、日本の貨幣制度を創設したのは武田家というのは案外、知られていないのではないでしょうか?
金を投資するに当たって、お金の基礎として日本の貨幣制度の原型は武田家にあるという事実は、豆知識として知っておいても損はないと思います。
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