日本最古の女帝・推古天皇
令和に改元して新札が発行されるそうですが、聖徳太子こそが元祖お札の人と言っても過言ではないでしょう。
お子さんの歴史の教科書を見て、聖徳太子に関する記述がなくなったことに愕然とした人は多いと思います。
今回は、なぜ聖徳太子の記述がなくなり、厩戸皇子と表記変更になったのかの話をしていきます。
皆さん知りたいようで、案外、誰も調べていないことではないでしょうか。
令和に入って、新天皇が即位しました。
「皇室典範」により男性皇族がお世継ぎということになり、秋篠宮さまや、その第一男子である悠仁さまが皇位継承者とされ、女性皇族にはその資格がないとされています。
しかし、過去に日本では女帝が誕生しています。
女帝には皇極、斉明、持統天皇などがいらっしゃいますが、その最古は、推古天皇と史実ではなっています。
推古天皇の皇配である敏達天皇が早世したため、弟が次から次へと天皇に即位していきました。
敏達帝亡き後、用明天皇が跡を継ぎますが、その次代の崇峻天皇に至っては、『日本書紀』によれば、当時の権力者である蘇我馬子に暗殺されたことになっています。
美女として名高かった推古天皇
推古天皇は、先に記した通り日本最初の女帝の可能性が高く、長命さと非常に美人であったことでも知られます。
その根拠は、敏達天皇の弟に穴穂部皇子という皇位継承者がおり、彼は何もしなければ次期皇位は確実視されていましたが、忠臣を暗殺されて喪に服している額田部女王(後の推古天皇)をこともあろうに犯さんとし、その宮に押しかけるという罪を犯しました。
こうした事件を起こすことが、皇位継承者としてふさわしいか否かの判断は皆さんにお任せしますが、当時もその認識は変わらなかったでしょう。
さらに穴穂部皇子は当時、蘇我馬子に対抗していた物部守屋の庇護を受けており、馬子との権力争いに守屋が敗れてしまったことも運命を決定づけました。
そして結局、病没してしまいます。
一部には蘇我馬子に討伐されたという声も聞かれますが、皇子を臣下である蘇我馬子が軍を立てて討伐するというのは、歴史では革命と言いますので、重大事件です。
つまり、通常であれば臣下が天皇や皇子を討伐するなどあり得ません。
戦国時代の下克上とは違います。
推古朝以前の経緯
この推古朝の記述のほとんどが『日本書紀』によるものであり、結果として天皇家をほめ称える記述しかありません。
『日本書紀』には蘇我馬子や物部守屋をあまりよろしくない人物、つまり天皇家に后や皇后などを送り込み、外戚関係を作り上げ、利用しようとした人たちという偏った記述になっています。
この『日本書紀』の正確性が、聖徳太子が歴史の教科書から名前を消した理由の一番です。
後世さまざまな事実を確認していくと、どうも蘇我氏や物部氏が必要以上に悪者にされている傾向がだんだんと明らかになってきました。
さて、用明天皇、崇峻天皇と皇位が継承されますが、特に崇峻帝は短命で、『日本書紀』によると、やはり蘇我馬子に惨殺されたことになっています。
しかし、さまざまな文献と状況証拠などを突き合わせると、崇峻帝もやはり病没だというのが現在の学説です。
結果として用明天皇の子、穴穂部皇子も亡くなり、敏達天皇の弟たちもすべて亡くなってしまい、世継ぎがいなくなってしまったのです。
推古即位の経緯
残ったのは、額田部女王の子である竹田皇子と甥の聖徳太子(厩戸皇子)でした。
この時点で両名とも19歳で、古代では成人年齢を20歳と考えるのが妥当であるとされます。
天皇家の緊急事態に、お世継ぎが成人しているか、いないかは大した問題ではありません。
推古朝で聖徳太子は、摂政の職に就きます。
摂政とは、平安時代の摂関政治に代表される職で、天皇に代わり政治と摂るという意味があり、天皇に政治を行う能力がない場合、摂政が司ります。
しかし、推古天皇は当時40代で、聖徳太子は19歳ですから、通常は推古天皇のほうが摂政となり、聖徳太子が天皇になってもおかしくありません。
現代でも首相が20代の若い人であれば頼りなく感じるでしょう。
やはり、トップは年齢を重ねた人にお任せすることが妥当のように感じられるものです。
すると推古天皇が皇位を継承し、聖徳太子が摂政というのは、順序があべこべだと感じるようになると思います。
この辺も聖徳太子が歴史の教科書から名前を消した理由です。
奈良県橿原市の植山古墳の出土
2000年に奈良県橿原市の植山古墳から新たな石室が発見されました。
この古墳の形式は横穴式古墳といい、有名な仁徳天皇陵などの前方後円墳に比べると、あまり聞き覚えがありません。
推古朝前後の天皇家のお墓は、過去の証拠から横穴式になることがわかっています。
植山古墳の大きな特徴は、通常の横穴式古墳には1室しかない石室が2室ある点です。
天皇のほかにそれに類する人のお墓を集合させたものと考えられ、この2人とはそれぞれ推古天皇と竹田皇子と特定されました。
竹田皇子は若くして病没してしまったことが、推古朝が30年以上も続いた理由になりますが、竹田皇子の母である推古天皇は当然、実子である竹田皇子を天皇にしたかったのでしょう。
早世してしまった竹田皇子に立派なお墓を作り、そして自分亡き後はその横に眠らせてほしいと懇願したことが、植山古墳に2つの石室がある理由というのが妥当な推測と思われます。
現代にも通じる母親の感情が推古天皇にあったのでしょう。
これらの事実は、推古天皇が自分の子である竹田皇子に皇位を引き継いでもらいたいという願望のために天皇に即位し、聖徳太子の即位を阻止したと思われます。
『日本書紀』の見直し
『日本書紀』では、当時権勢を振るっていた蘇我馬子を悪者に書いています。
実際、年配の方は、蘇我馬子とというと非常な悪者というイメージでしょう。
しかし、考えてもみてください。
天皇家の世継ぎである穴穂部皇子を殺したのも、またで崇峻天皇を殺したのも蘇我馬子なのであれ、その馬子の娘が聖徳太子のお嫁さんになるわけがありません。
天皇を殺害したとすれば、蘇我一族郎党が国賊として惨殺されるでしょう。
馬子はそれ以降も権力を振るっています。
編者が天皇家を脚色するために馬子を悪者に仕立て上げた可能性が非常に高いのです。
実際に『日本書紀』の記述には、ほかの書物とかなり違うところがあり、その解釈が、平成以前や2000年以前は『日本書紀』の記述に合わせ過ぎていたきらいがあります。
2000年以降、『日本書紀』の正確性に疑問を持つ声が大きくなり、その整合性が検証され始めたというのが事実になります。
そこで、『日本書紀』に記されている事実と、ほかの書物に記されていることを整合していくと、『日本書紀』の記述にかなりの疑義が出ているということが現在の主流の考えになります。
馬子と聖徳太子、そして皇位継承
当時有力な豪族であった蘇我馬子の娘をもらうことは、皇位継承には非常に有利なことになります。
一方で物部は宮中の警護などを担当する役人であり、現在で言えば官僚というところでしょうか。
物部氏は蘇我氏と仏教伝来について争いをしており、物部氏が天皇の権威を守るために仏教を排斥したのは当然のことです。
結果として仏教推進派の馬子に滅ぼされる結果となります。
その馬子の娘をもらう聖徳太子は、仏教推進派と捉えてよいでしょう。
推古(額田部)は息子である竹田皇子を次期天皇にしたい、という想いがあります。
聖徳太子にとって推古天皇はおばさんになります。
おばさんの想いを知って、天皇職を辞したのが真相になるでしょう。
では、なぜ聖徳太子は竹田皇子亡きあとも、天皇の地位に就かなかったかという疑問がわきます。
聖徳太子の人となり
聖徳太子は、人の話を十人同時に聞けたり、「十七条憲法」を制定、小野妹子を遣隋使として派遣、日本最初の経典である『三行義疏』の執筆とさまざまな功績が『日本書紀』に記されています。
特に人の話を十人いっぺんに聞けるというのは、どう考えても摩訶不思議な話であり、おそらく馬子を悪者に仕立て上げるために相対的に聖徳太子を持ち上げたのでしょう。
ほかの功績を考えると、すべて仏教伝来と儒教的な考えを信奉するために行った施策と言えます。
法隆寺などの仏教寺院が、その功績と当時の権勢を今に伝えているでしょう。
法隆寺の位置は、当時の中国や朝鮮との貿易の要である摂津への道中にあり、おそらく摂津から入ってきた大陸からの輸入品を見るために建立したと考えられます。
法隆寺と四天王寺
現在、法隆寺は史跡になっていますが、当時の仏教は最新の考え方でした。
寺というよりも、現在の大学のような研究施設であったと考えられます。
それに対して四天王寺は、戦没者を慰霊するためのお寺という位置づけで良いでしょう。
実際に、法隆寺には当時の最先端であるお宝や仏像の宝庫であり、その倉庫にはさまざまな遺物が残されています。
聖徳太子というのは当時の仏教の最先端の学者という位置づけができ、ゆえに仏教の知識に乏しい推古天皇をサポートする摂政の地位にこだわった理由になると思います。
聖徳太子という人物は、成人君子というよりも、当時の天才学者という位置づけが正しいと言えるのです。
太子は聖人君子か?
聖徳太子の聖人君子的なイメージは、当時、仏教と同時に儒教も入ってきているので、儒教的なイメージを作り出すものと考えることができます。
実際に聖徳太子がそれほどの聖人君子であったかと言えば、そうでもないと考えられます。
なぜなら、蘇我馬子の娘のほかに結婚した女性は3人もおり、とても儒教の考えとは相容れないからです。
当時の一般的な道徳観念がどうであったかは知る由もないのですが、儒教ではそういう考えは成立しません。
ただし当時としては、仏教の経典を理解できる秀才であったことは間違いないようです。
なぜ聖徳太子の名が教科書から消えたのか?
一番の理由は前にも触れたように、『日本書紀』が歴史を歪曲(わいきょく)しているからでしょう。
戦前では天皇が神様であり、それ以外は臣民であって、天皇は不可侵というような考え方が主流でした。
その天皇を批判することは畏れ多いという認識が、時代が平成、令和になって薄れてきたことが原因でしょう。
蘇我氏、物部氏にしても天皇家の忠実な臣下であり、天皇なしに成立しない豪族でした。
物部氏は天皇の宗教である神道、アニミズムを崇拝していましたが、仏教推進派である蘇我氏に排斥されます。
それが『日本書紀』の編者には頭の痛いところだったと思われます。
『日本書紀』の編纂背景
奈良時代に舎人親王を中心に『日本書紀』が編纂されました。
当時は、東大寺の大仏を含め仏教の興隆期になりますが、一時期ほどの熱狂的なものではなく、再び神道、日本古来のアミニズムに帰趨していった形跡が後の神仏習合の流れに帰結するという時代です。
仏教ブームが過ぎ去ったころに編纂されており、天皇家に対して過大な仏教賛美ができないことになります。
しかし、仏教推進派の天皇家の一員でもある聖徳太子を排斥するわけにもいきません。
結果として、蘇我馬子を必要以上に悪者に仕立て上げ、必要以上に聖徳太子を持ち上げたというのが真相なのではないでしょうか。
文科省としては、必要以上に持ち上げられた聖徳太子を普通の人に戻したいという意図があり、学術的にもその点は合致しているということで、聖徳太子が歴史の教科書から消えた理由になると思われます。
歴史は変わる、金の歴史も変わる
聖徳太子の本来の名前は厩戸皇子であり、その表記に戻されただけの話です。
しかし、聖徳太子が日本の歴史上、仏教と儒教の伝来の最大の功労者であり、また当時の建築物や宝物は今も私たちを古代のロマンへといざなってくれます。
時代が平成から令和に変わり、歴史も変わっています。
と、同時に過去が変わっているのですから、あなた自身も変化しなければなりません。
金という商品は変わらないでしょうが、金の歴史は今後も変わっていくでしょう。
そうなると、金の価格形成も変わっていくことでしょう。
歴史を勉強しても何も意味がない、という考え方が過半を占めると思いますが、決してそんなことはありません。
コメントを残す