実は二度目の登場
今回は、新紙幣の肖像画となる渋沢栄一についてです。
今の福沢諭吉翁にしても『学問のすすめ』、慶応義塾の創設くらいはご存知でしょうが、あまりよく知らないというのがほとんどの人の実感ではないでしょうか。
渋沢栄一についても徐々にわかっていけばよいと思います。
過去、聖徳太子は何度もお札の肖像画になっていますが、渋沢栄一も実は二回目の登場です。
渋沢の肖像は、日本が朝鮮半島を植民地化していたときの紙幣に使用されています。
これに対する本人の感想は残っていませんが、きっと栄誉なことだと思っていたでしょう。
また、旧五千円札の新渡戸稲造の開墾した土地は、もともと渋沢栄一が保有する渋沢農場の一部でした。
お札つながりの新渡戸と渋沢は、過去に同時代を生きた人でもあります。
同様に福沢諭吉や旧千円札の夏目漱石も、渋沢と同時代を生きた人であり、現在の紙幣の肖像画と無縁ではないということを覚えておくとよいでしょう。
伊藤博文や岩倉具視、板垣退助など、戦後の日本の紙幣の肖像画は、ほとんど明治維新のころの著名人になります。
逆に言えば、お札の代名詞であった聖徳太子が異例だったと言えるのです。
華麗なる渋沢一族
渋沢栄一は、埼玉県深谷市の出身です。
生家は渋沢一族の分家であり、本家ではありません。
もともとは養蚕農家で、その藍染めによって財を成しています。
つまりは庄屋さんの家柄ですが、幕末には渋沢は徳川慶喜に仕えました。
この経緯は、渋沢はもともと尾高という先輩によって尊王攘夷運動を志していたのです。
地元の高崎城を急襲し、尊王攘夷運動を盛り上げようとしたのが世の中へのデビューと言ってよいでしょう。
もっとも、この襲撃計画は一橋慶喜の家臣に止められて断念しています。
その結果、幕府に追われるも、その一橋家お抱えとなり、尊王攘夷派であったのにもかかわらず、後の15代将軍、徳川慶喜の家臣となりました。
参考までに、渋沢の孫、敬三は和宮の娘を嫁として娶っており、皇室とも血縁がある家系です。
近代法学者ともいわれる穂積家とも親交があり、そのお付き合いを見ると、まさしく華麗なる一族と言えるでしょう。
日本の資本主義の根幹を築いた渋沢栄一
近年話題となった群馬の富岡製紙工場も、先に述べた尾高が初代工場長で、発案は渋沢が大蔵官僚のときに行って殖産興業の柱として設立されました。
このように渋沢は、さまざまな政略結婚を娘や孫を使って行い、ここに埼玉・深谷をもしのぐ名家となっていったのです。
ただし、渋沢自身は大変な女好きとして知られ、女性の友人はほぼお妾さんになります。
婿の近代法学者、穂積に民法を典拠として渋沢家家法を作成させたのは、子供の数が多すぎ、内紛につながると考えたからでしょう。
結果として次期渋沢家の主となる息子は、激しい女遊びの結果、新橋の芸者と暮らすために家庭と渋沢家を放棄し、廃嫡になっています。
栄一の孫に当たる敬三が後に日銀総裁、大蔵大臣などを歴任しましたが、結果として趣味に生きる人となってしまいました。
これは、あまりにも渋沢栄一の功績が大き過ぎ、息子、孫にわたるまで、そのプレッシャーに耐えきれなかったことに帰結するのでしょう。
渋沢は91歳で大往生していますが、85歳ですべての役職を退いたときの肩書は、現在の日本の有数の企業ばかりであり、日本の資本主義の根幹を築いた人という面では、余人をもって代え難いと言えます。
渋沢と徳川慶喜
渋沢栄一は、最後の将軍、徳川慶喜の家臣でしたが、明治維新には立ち会っていません。
その間、慶喜の弟の昭武と一緒に外遊に行き、日本にはいませんでした。
ただ、江戸幕府崩壊後も慶喜との交友は続いており、特に息子の廃嫡に関しては慶喜を担ぎ出し、渋沢を思いとどまらせようとしたこともありました。
渋沢は、かつての主君である慶喜の意見であれば問答無用で聞いたのです。
パリで渋沢は株式会社というものを学び、それを日本に持ち帰ったのですが、その間に日本では明治維新が行われ、慶喜は静岡に蟄居していました。
その静岡で株式会社を設立して大きな利益を出し、その名声から当時の大蔵卿、大隈重信から官吏への誘いを受けたのです。
このときは租税官吏として採用されました。
日本初の株式会社を設立
株式会社とは、一般の人々から出資を募り、そのお金で運営していく形態の会社を指します。
当時の日本にも株式会社の形態はありましたが、それは身内のお金を集めて運営していく方法で、不特定多数からお金を集めて会社を運営する方法は、渋沢が初めてでした。
そこで「日本の資本主義の始祖」と言われるのです。
大蔵官吏として租税を担当した際、海運業が必要となります。
当時はまだ明治維新初期だったので、税金は現金ではなく、江戸時代の名残を受けてお米で徴収していました。
そのお米を運ぶ船が必要で、政府と三井組と共同で海運会社を設立したのも渋沢になります。
渋沢と岩崎弥太郎の違い
渋沢の対抗にあったのが三菱の創業者である岩崎弥太郎で、渋沢に対して「一緒に官吏を辞めて事業を起こそう」と誘いをかけましたが、渋沢はその誘いを断りました。
渋沢は岩崎を嫌い、岩崎も同様に渋沢を嫌っていたのですが、時の権力者、渋沢にすり寄ることが岩崎の戦略だったのでしょう。
なぜ嫌ったかと言えば、岩崎は事業を株式会社にしましたが、利益は全部、岩崎家のものと考えていたのに対し、渋沢は、利益は株主や従業員のものと考えていたことに徹底的な対立があります。
岩崎の利益の配分の仕方では、日本を殖産興業することはできないと考えていたのです。
渋沢は日本のためにがんばったのに対して、岩崎はあくまでも私利私欲のために事業を行ったことが徹底的な対立の原因です。
どちらの考え方がより近代的であるかは言うまでもなく、岩崎家が今でも三井家よりもよく言われない理由は、こういった岩崎家の使用人である三菱という考え方に大きな問題があると思います。
一方で渋沢の考え方は、広く国民に受け入れられることになったのです。
数々の渋沢伝説
渋沢は「論語と算盤」とよく言われますが、壮年期においてはどこにでもいる生意気な青年の類で、老年期になって「社会によって稼いだお金は広く世の中に還元しなくてはいけない」と常々言っていたことが伝説になっています。
死期の迫った渋沢に慈善団体が面会を申し入れ、総反対だった家族を尻目に病魔に侵された体にムチ打って要望を聞き入れ、その足で、国家の問題だからと大蔵大臣に面会を申し入れて、国家にも食えない人たちの保護を訴えたほどです。
大蔵大臣は渋沢の病状を知っていましたので、自分から飛鳥山の渋沢邸に向かうと言ったのですが、「自分からお願いしに行くのに、大臣に来てもらうなどという無礼はできない」と病魔を押してまでも、大蔵大臣と面会して、食えない人たちの保護を訴えました。
このような逸話が渋沢伝説となったのでしょう。
自分がお金儲けはせず、儲けたお金は世の中に還元することに努めたのです。
実際に戦後、三井や三菱はGHQから財閥解体を命じられましたが、渋沢財閥はGHQ自らが解体指定を解除しました。
しかし、当主の渋沢敬三はその申し出を拒否し、財産税徴収を受け入れたのです。
このような渋沢家三代に続く、脈々とした世の中に還元するということが渋沢伝説につながっていると思います。
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