移動の自由が今日の発展と豊かさをもたらした
17歳の少女が地球温暖化に危機感を募らせ、政治家を糾弾しています。
これに対してアメリカの政治家は、軒並み彼女に批判を浴びせています。
どっちもどっちですが、弊社はトランプ大統領やムニューシン財務長官の肩を持ちたいと考えます。
今回は、このことに関しての解説です。
使い古された言葉になりますが、「自由は大事だ」という言葉にどういう感想をお持ちになるでしょうか?
よく高校生辺りの世代が「自由には責任がある」と彼らなりに言葉をつむいでいますが、実際はあまりよくわかっていないのだろうと感じられます。
これは、その自由という言葉を教える学校の先生や親がわかっていないからです。
少し話がそれますが、教師や親たちは、子どもに自由を与えると自分のコントロールを離れてしまうので、「責任がある」という言葉によって放任主義を放棄させているだけの話です。
人間の感情、行動、言動は本来自由であるべきであって、これに規制を加えるべきではありません。
しかし、国会議員の言動を聞くと、「規制しろ、規制しろ」と吠えまくっています。
例としてのあおり運転問題と規制
今の高速道路のあおり運転の問題などはその典型になります。
追い越し車線を独占して走行する車に対して、危害を加えた後続車が悪いという論調です。
しかし、本来は先頭を走っている車が悪いのです。
現在の道路交通法では、追い越し車線は車を追い抜くときにのみ走っていいことになっています。
関東地方の高速ではよく見かけるのですが、追い越し車線を制限速度の時速100キロで走っているから「私は交通ルールを守っている」なんて車ばかりです。
これはレッキとした交通違反であり、安全運転注意義務違反で青キップを切られてもおかしくない犯罪です。
追い越し車線に出ていいのは、文字通り車を追い越すときのみであり、通常は走行路線のみです。
それを時速100キロで走れば後ろからあおられて当然でしょう。
関東では後ろから来た車が悪いということになりますが、逆に関西地方で高速を走れば、明らかに関東の認識が間違っていることがわかります。
今回空気銃を打った人は関西の人ですが、関西ではそれが当たり前の感覚です。
だからといってその人をなぐるのはありえない対応ですが、そもそも自身が交通違反したことに起因しているのに、被害者面をしている感覚がわかりません。
それを規制によってあおり運転に厳罰を行う、何かおかしいのではないかというのが素直な感想になります。
つまり、関東地方のドライバーのほとんどが交通ルールを無視しているのが原因なのに、なぜそれを厳罰化するのか意味がわかりません。
それを検挙しない関東の警察もおかしいのです。
暴力などは論外ですが、「私は被害者だ」なんていう方もおかしく、お互いに悪いのです。
もっと生産的な議論を
そもそも国会議員の先生は、車の運転などしないから感情論だけで新たな規制を作り、満足しているだけです。
国会での議論を見ていると、どこの議員も「規制を導入しろ」、そして「税金を我が町に導入しろ」としか言っていません。
安倍首相が「もっと生産的な議論を」と言うのはわかります。
なぜなら規制によって我々の息苦しさ、そして国会議員が自身の再選のために「税金を投入しろ」、「軽減税を」って、誰の税金だと思っているのだと思います。
彼らは給料も自身の再選も税金でまかなわれているという意識が欠如しているのです。
税金や規制を導入することの結果として、日本の成長に効率的、合理的に貢献するという議論がなされないといけないのですが、ともかく税金や規制を自分の再選のための道具として使っているどうしようもない連中です。
今の桜を見る会の議論にしても、野党は次の選挙で確実に負けるのはわかっているのに、「退陣しろ」って頭が悪すぎるようにしか見えません。
野党に政権なんか求めている国民が過半数以上もいるとは到底思えず、そもそも安倍内閣をつぶしても、別の自民党内閣ができるだけです。
通常勝ち目のない戦いなのですから、少しでも頭が回る人は戦略を変えます。
こういう議員たちが「規制、規制」、そして「税金投入」とか叫んでいるのですから、日本の国家予算が膨らむのも当然です。
なぜ人は規制が好きなのか
自分の既得権を守ることができるから、ないしは自分がもうかるから人々は規制が好きなのです。
子どもを自由放任にすれば、自分の管理監督権が薄れますので、責任があると規制を加えます。
要するに、保護者という既得権を死守するために責任があるという縛り、つまり規制を加えているだけなのです。
自由の大切さ
人間の行動、言動、感情の自由というものを皆さんはあまり認識していませんが、これは短期的な効果はほとんどありません。
しかし、長期的効果においては絶大なものがあります。
例えば金の取引と言うのは、金本位制下では売買が自由にできない状態でした。
ところがアメリカが1970年に金本位制度を変更したときから、金の売買は自由化されたのです。
そのときたった35ドルだったものが、現在1600ドルくらいの値段で推移しています。
50年間で金の価格は何倍になったのかを計算するのも面倒なくらいの値段になっているのです。
自由の恩恵というのは絶大なものなのです。
規制で縛るだけなら責任放棄と同じ
高校生が親や教師から「あなたは自由だ」、「何をやってもこの自由世界においては許される」と言われれば、彼らはのびのびと生活するでしょう。
でも、特に学校の教師は、のびのびやらせたら彼らは何をしでかすかわからないと考えます。
だからやってはいけないことを決めよう、これが校則です。
例えばベビーブーマー世代は子どもがたくさんいる時代で、管理が大変な側面があったことから校則が厳しいことは当然ですが、それ以上に今のほうが厳しいというのは驚きです。
管理は昔以上に簡単になっているのに、今のほうが厳しいのは通常理解できません。
この事実を見れば、今教育現場で何が起こっているのかよくわかります。
しょせん教師といっても他人の子どもの面倒を見るだけの話しですから、単なる責任放棄なんだろうなと思うだけです。
親にしても、自分の子どもですが、必要以上の責任を負いたくないのでしょう。
だから、自由には責任があると規制を加えるのです。
誰のためのルール?
高速道路にも上記のようにルールがあります。
みんながスムーズに通行できるように定められたルールです。
そのルールがなくて自由に通行させれば、高速道路の意味をなしません。
極端な話、逆走をやれば大渋滞になるわけですから、そこにはルールが必要です。
でも、あおり運転禁止なんて道徳上当たり前の話であり、そもそも前走車がルールを守っていれば、あんな事件は起こり得ませんでした。
そこに規制を加えて、自由を奪っている大人や国会議員、官僚のほうがおかしいのです。
しかし、国会議員や官僚は、規制を設けることによってもうかるから規制が好きなのです。
教師は自分の仕事が減るというメリットがあるから、校則という規制を好むのです。
本来、道交法も校則も含めて規制というものは、みんなが安全かつ快適に過ごすためのルールのはずが、特定の個人や団体の利益を守るために規制ができているのが現状です。
17歳の飛び恥がエキセントリックな理由
グレタさんについて経済を勉強する身からすれば、ムニューシン米財務長官の「経済学を学んでからえらそうなことを言ってほしい」という意見に激しく賛同します。
確かに人類にとって、地球温暖化で人間が住めない環境に地球がなるのは絶対に防ぐべき課題です。
しかし、移動の自由があるから、私たちはこの豊かさを享受できるという事実がすっぽり17歳の少女とその支援者、ノーベル財団には欠けています。
飛行機のない世界
飛行機を使わないようにするとローコストの飛行機会社がなくなり、今のように安価で海外に行くことができなくなります。
すべてが非常に高価になり、海外旅行などは昔のように金持ちなどの特権階級だけのものになるのです。
日本中で反対が起こるのは自明です。
反面、中国人が新型コロナウィルスを持ってくることもないでしょうが…。
そして、安い中国製品が街中からなくなり、アップルの高額なスマホしかなくなったら、困るのは自分自身ということがわかっていない人が多すぎます。
今日の私たちの豊かな生活は移動の自由、行動の自由に帰結することを認識している人があまりにも少ないのです。
飛行機に乗らないことは賛成と、一見感情的には正しいと思えることをすべて正しいとか言える不見識者が17歳の少女を支持するのです。
豊かな暮らしを享受したい、でも二酸化炭素による地球温暖化もダメという、都合のよいことを言っている人がほとんどなのです。
水素自動車や太陽光発電が環境にやさしい!?
参考までに水素自動車が環境にやさしいとか言っている無知な人も大勢います。
水素の発電機は水素を爆発させることによって動力にしているわけですが、水素に酸素を化合させれば、石炭を燃やしてエネルギーにする以上に二酸化炭素を発生させます。
このどこが環境にやさしいのですか?
また、太陽光パネルによって周辺の温度上昇が顕著になり、ゲリラ豪雨が発生し、それが温暖化につながっている可能性もあるのです。
電気自動車とガソリンカーの二酸化炭素は実質、電気自動車の二酸化炭素発生量のほうが多いのです。
再生エネルギーは環境にやさしいと皆さん勘違いしていますが、二酸化炭素という面においては正しくありません。
それでも「飛行機には乗るな」とあの17歳の少女は言うのです。
知識や知見、経験が不足している娘さんを皆さんは支持していることになります。
要するに、環境を守ることは大事だとヒステリックに叫んでいる人に無闇に迎合してはいけません。
もちろん、自然環境を守ることは大事ですが、今やっていることの保護活動、主なモノは再生エネルギー中心に間違いだらけというのが実態です。
これは本当に大事なことですので、もっと認識を持つべきです。
では、どうすればいいのか?
高速道路では、ほとんどの車は時速100キロ以上では走ってはいけないルールになっています。
これによって事故もなく安全に、より早く目的地に行けるからルール化されているのです。
飛行機も同じで、飛行機が地球上を何機飛び回るごとに二酸化炭素がいくら増え、温暖化するというデータを集めれば済む話です。
ただし、多分そんなデータは出ないと思いますが。
なぜなら、飛行機や化石燃料が二酸化炭素増大の理由だと考えていないからです。
だから何機飛ばしても、その原因に対して二酸化炭素がいくら増えるなんてデータはランダムになり、規制値が出てこなくなると考えています。
この規制値とは、高速道路でいう制限速度100キロという数字です。
すなわち1日で飛行機が1万機、10万機飛ぼうと、データに差異はほとんど見られないでしょう。
しかし、このデータから、何機飛べば二酸化炭素がいくら増えるから規制値を1日何機にしようという規制ができるのです。
もちろん国によって、世界最大の人口を抱える中国や世界最大の経済大国であるアメリカは、規制値よりも多くの航空機を飛ばしたいでしょう。
そういう国には罰金を払わせる、ないしは航空機枠が余っている国からその枠をもらい受ければいいだけの話です。
このような譲渡の制度を行うよりも、二酸化炭素の排出量を今の車の排気ガスのように一律に決定し、その技術革新を待つという方法もあります。
こうすれば自動車会社が競って排ガスの研究を進め、現在では光化学スモッグの発生件数が極端に減ったという結果もある事実を見れば、有効な手段です。
本当に船のほうが二酸化炭素の排出が少ない!?
ともかく17歳の少女の主張は極端すぎであり、私たちが現在裕福な生活を行えることは、飛行機のおかげということを認識している人があまりに少ないのです。
飛行機に乗っちゃいけないことを飛び恥というらしいのですが、それによって受ける経済的損失を考えると、私たちも政治家も受け入れることができないというのが当たり前の判断になります。
例えば、船の方が二酸化炭素の排出量は少ないでしょう。
ただし、それは時間当たりの数値で、航行距離で算出すれば飛行機も船もあまり変わらなくなるはずです。
二酸化炭素などの有害物質が減れば、反対にほかの有害物質量が増えるというのが自然の法則になります。
私たちが自由を握れば握るほど、それに対する負の側面は必ずあるわけで、自分の利益のために規制を行使してはいけないということです。
自分を利するためのルールなどちっとも機能などするはずもなく、いずれ破綻するでしょう。
それでも飛び恥を叫びますか?
高速道路のルールなどはよくできており、それに自分を利するためのルールをつけ加えることによって満足している国会議員や法曹関係者は無策です。
なぜなら、追い越し車線を走らなければいいだけの話ですから。
空気銃や暴力を振るう人間は、そもそも高速道路でなくても悪さをしでかし、勝手に自滅すると思いませんか。
そんな人間のために、私たちの自由をルールを変更しないでほしいと思います。
飛び恥も同様です。
自分の豊かな暮らしをかなぐり捨ててもそれを支持する人なんて、ほとんどいないでしょう。
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