慶長大判の特徴
慶長大判は、徳川家康が天下統一後の1601年に初めて作らせた大判です。
室町時代から大判の製造に携わってきた後藤家が引き続き担当しました。
元禄大判が登場するまでに15,000~16,000枚ほど流通したと記録に残されています。
表書き
- 上下左右に桐の丸印
- 花押(簡略化された署名。製造者のサインにあたるもの)は「拾両」「後藤」の墨書。
徳乗、長乗、顕乗、程乗が残されています。
よく知られる笹書大判(ささがきおおばん)は長乗の笹の葉に似た花押を指しています。
裏書き
中央に丸枠桐紋、亀甲枠桐紋、花押紋の極印が入ります。
慶長大判のサイズと重さ
サイズ
長径15cm前後 短径9cm前後 厚さ1㎜前後
重さ
165g
※大判に墨で書かれた「拾両」は重さをあらわしています(44匁=165g))。
1両小判10枚をあらわすものではありません
慶長大判の金の含有量
金の含有率は68%前後
慶長大判の歴史的背景
ここでご紹介した慶長大判は、江戸時代に発行された5種類の大判のトップバッターです。
豊臣秀吉が鋳造した贈答・賞玩用の大判、現存数6枚しかない世界最大の表面積を持つ天正菱大判を含む天正大判を参考に作られました。
ただし表面が滑らかな天正大判と異なり、慶長大判の表面にはたがね(金属加工の道具)あとをつけてあります。
実は大判小判が登場する前の日本の貨幣制度のルールはあってないようなものでした。
場所によって通用する貨幣が異なるうえに、重量や品位(金銀の純度)もまちまちで、取引のたびに天秤で重量を計測する必要があったのです。
その理由は戦乱の時代という状況下では仕方のないことですが、当時の日本には国の管理下にある通貨がありませんでした。
人々は中国から輸入された銅銭、宋銭や明銭を使用していましたが、なかには粗悪な渡来銭や個人が鋳造したオリジナル?貨幣も混じるように。
そこでなるべく価値の高い良銭を選ぶいわゆる「撰銭」をおこなわざるを得なくなりました。
さらには佐渡金山や石見銀山などの埋蔵量の豊富な鉱山を持つ大名たちは、藩内で通用する金貨銀貨(領国貨幣)を作るようになり通貨制度は混乱を極めました。
そこで天下統一を果たした徳川家康は、金の純度や重さを統一した金貨すなわち大判小判の造幣をスタートしました。
ここにはじめて日本の貨幣の標準化が実現することとなりました。
慶長大判の買取相場の目安
過去10年間の買取店5社の平均取引価格は「550~650万」の間で推移しています。
しかし2020年前半の金価格は上昇基調にあります。
また東京オリンピック開催により海外渡航客数の増加が見込まれることから、「骨董」「アンティーク」「日本美術」の観点から人気が上昇しさらなる高値が期待できます。
大判小判マニアなら知っておこう!「1 金座と銀座は江戸時代の造幣局」
現在の日銀本店がある東京都中央区日本橋本石町は、大判小判を製造していた「金座」があった場所です。
「金吹所」と呼ばれる製造工場のほかに、造幣局や日銀オフィスの役割を果たした「金局」がありました。
さらに室町時代から大判小判の製造を一任されてきた後藤家の邸宅がありました。
これらを総称して「金座」とよばれており、勘定奉行の管理下のもとで後藤一族ほか大判以外の貨幣製造に携わっていた金座人が忙しく立ち働いていました。
また金座は江戸のほかに京都、駿府(静岡)、佐渡(新潟)の4か所にありました。
対して銀座も江戸、伏見(京都)、大坂(大阪)、長崎の4か所にありましたが、江戸以外は間もなく廃止されることに。
いまなお銀座エリアが東京を代表する街となっているのは、長らく銀貨をはじめとする貨幣製造がおこなわれていた名残なのです。
どちらも明治維新後の1869年には造幣局に吸収されることとなり廃止されました。
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