大判小判&古銭の総合カタログ!第11回「元文小判」

元文小判の特徴

参照元:神奈川歴史博物館

元文小判は、「文」の文字が打たれているためほかの小判と区別がつきやすい小判です。

(元禄小判と区別するためといわれています)

大岡越前徳川吉宗のタッグによる元文の改鋳で作られた小判で、「文字小判」「古文字小判」「真文小判」などの別名があります。

流通時期

1736年(元文元年)

※改鋳のたびごとに通用停止とする触書を出すも、幕末に至るまで通用された

発行枚数

13,936,220両

※一分判(1/4両)二朱判との合計

おもて面

形状 一般的に「小判形」と広く使われるだ円形

表面 墨書を極印に改める。全体的に打目(ござ目)が彫られる。

※金の純度を示すために金をたたいて伸ばした。また装飾、偽造防止の意味も含む。

 

極印上下 扇枠に囲まれた五三桐(ごさんのきり)

極印中央 上下に方形枠に囲まれた「光次(花押 明朝体)」の極印 中央に「壹両(=「壱両」)」の極印

 

極印下部 左下に金座・小判師の験極印(直径8.5~9mmの花押) 

左右に吹所棟梁の小験極印1~2個 両替屋の刻印が複数ある場合も

うら面

極印中央 直径11~13mmの「光次(花押 草書体) 」の極印 

 

極印下部 左下に金座・小判師の験極印 吹所棟梁の小験極印 右上に「文(明朝体)」の打印

(大吉など縁起の良い組み合わせの小判は七福小判と呼ばれ人気があった)

 

※佐渡小判の場合は、小判師の験極印は「筋」 吹所棟梁の小験極印「神」、「当」

元文小判のサイズと重さ

サイズ

縦 64~66ミリ 横 34~39ミリ

※小判は、サイズに多少の差が生じます。

 

鋳型に流し込んで作るのではなく「金塊をたたいて薄く延ばす → 金の板を一両分の重さに専用のはさみで切る → 小判の形に打ち延ばす」という製法で作られています。

重さ

13.0グラム 前後

元文小判の金の含有量

金の含有率は65.7%前後

元文小判の歴史的背景

鈴木春信の中判錦絵『浮世美人寄花・南の方松坂屋内野風』参照元:https://commons.wikimedia.org

元文小判は元文の改鋳によって金の品位と重量、どちらも引き下げた小判です。

大岡越前こと大岡忠相はこの海中によって幕府の財政再建に成功しました。

本来ならば改悪ともとれそうな元文の改鋳ですが、意外と庶民からも高く評価されたのです。

 

その理由は従来の改鋳が幕府の財政立て直しのための利潤稼ぎという動機にもとづくものだったのに対し、元文の改鋳の目的は「デフレ対策」にあったからです。

当時の日本では流通する物に比べて貨幣の流通量が足らない状況でした。

 

そこで元文の改鋳によって社会全体のマネーサプライの増加をもたらすことをもくろんだのです。

これまでの改鋳ではせいぜい50%だった新旧判の交換比率を65%にまでアップしたため、多額の旧小判が持ち込まれました。

 

江戸幕府ははじめて、幕府側の利益を犠牲にして、元文金銀の流通を促進させたのです。

このように元文の改鋳はいわば日本ではじめておこなわれたマクロ経済政策の視点に立ったはじめての改鋳でした。

元禄小判の買取相場の目安

過去10年間の元禄小判の取引実績を検証してみました!

大手古銭買取店5社の平均取引価格は「30~100万」となっています。

 

しかし、2019年ごろから金価格は上昇基調にあります。

 

また2021年に延期された東京オリンピック開催により日本文化への注目、海外渡航客数の増加が見込まれるます。

「骨董」「アンティーク」「日本美術」の観点から人気が上昇しさらなる高値が期待できます。

大判小判マニアなら知っておこう!「11金の大量流出危機を救った万延元年遣米使節」

参照元:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?sort=relevance&search=%E5%B0%8F%E6%A0%97%E4%B8%8A%E9%87%8E%E4%BB%8B&title=Special:Search&profile=advanced&fulltext=1&advancedSearch-current=%7B%7D&ns0=1&ns6=1&ns12=1&ns14=1&ns100=1&ns106=1&uselang=ja&searchToken=dvtncgladoamhqkfs8m6y15p8#%2Fmedia%2FFile%3AOguri_Kozukenosuke_Tadamasa.jpg

開国以来初めての海外使節団「万延元年遣米使節」

「日米修好通商条約」といわれればなんとなく、

  • 「黒船」
  • 「ペリーやハリス」

といったキーワードが学生時代の記憶と共によみがえってくるという人は多いことでしょう。

 

しかし「万延元年遣米使節」については知らなかったというケースは多いのではないでしょうか?

 

第4回目「天保大判」のコラム「大判小判マニアなら知っておこう!「4吹替(改鋳)は大判小判リサイクルの究極手段」で取り上げたいわゆる「小判流出問題」は江戸幕府にとって緊急を要する重要課題でした。

万延元年遣米使節は、この日米修好通商条約に含まれる不平等問題を解決すべくアメリカに渡った小栗上野介をはじめとする使節団のことなのです。

歴史から抹殺されたに等しい万延元年遣米使節

近代から現代にかけての日本史教育が不足している、とよくいわれることです。

実は明治政府は万延元年遣米使節や、小栗上野介について無視する形を取ってきました。

1854年の開国後はじめての公式海外視察団であり、日本人による初の太平洋横断であったにもかかわらずです。

その背景には明治政府を立ち上げた勝海舟ら恭順派の思惑が影響していました。

金の流出を防義ながら非業の死を遂げた小栗

小栗上野介の活躍によって、不平等な内容を是正することに成功した小栗上野介。

日本国内の誰よりも先んじて世界の近代化を目の当たりにし、欧米人との交渉の場で一歩も引かない胆力を持った貴重な人材でした。

しかしその後維新の動乱の中で、小栗上野介忠順は謀反として斬首されることとなります。

 

最後の将軍である徳川慶喜が、幕府を放棄し明治政府に恭順したあと、小栗は自分の居場所がないことをサッシ江戸を離れます。

にもかかわらず領地である上州(群馬県)で官軍に抵抗したという理由なき理由で処刑されることとなってしまいました。

 

この事件の最も大きな要因は、小栗上野介(主戦派)と勝海舟(恭順派)の対決にあります。

徳川幕府存続を求める主戦派、欧米に倣った中央政権を樹立させたい恭順派が相容れるわけもありませんでした。

 

作家の司馬遼太郎をして「明治の父」といわせた小栗上野介が、日本史の教科書に登場してこなかったのはこのようないきさつが背景にあったからでした。

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