天保小判の特徴
天保小判は、文政小判とおなじく金座が上位の武士や大名に献上した「献上小判」が作成された小判です。
極印に「大」「吉」が打たれているかによって、通常の小判と見分けることができます。
「新文字小判」「草文小判」などの別名があります。
流通時期
1837年(天保8年)
※改鋳のたびごとに通用停止とする触書を出すも、幕末に至るまで通用された
発行枚数
8,120,450両
※一分判(1/4両)との合計
おもて面
形状 一般的に「小判形」と広く使われるだ円形
表面 墨書を極印に改める。全体的に打目(ござ目)が彫られる。
※金の純度を示すために金をたたいて伸ばした。また装飾、偽造防止の意味も含む。
極印上下 扇枠に囲まれた五三桐(ごさんのきり)
極印中央 上下に方形枠に囲まれた「光次(花押 明朝体)」の極印 中央に「壹両(=「壱両」)」の極印
極印下部 左下に金座・小判師の験極印(直径8.5~9mmの花押) 左右に吹所棟梁の小験極印1~2個 両替屋の刻印が複数ある場合も
うら面
極印中央 直径11~13mmの「光次(花押 草書体) 」の極印
極印下部 左下に金座・小判師の験極印 吹所棟梁の小験極印 「保」の打印(大吉など縁起の良い組み合わせの小判は七福小判と呼ばれ人気があった)
※献上小判には意図的に「大」「吉」が打たれており実際の検印とは異なる
天保小判のサイズと重さ
サイズ
縦 59ミリ前後 横 31ミリ前後
※小判は、サイズに多少の差が生じます。
鋳型に流し込んで作るのではなく「金塊をたたいて薄く延ばす → 金の板を一両分の重さに専用のはさみで切る → 小判の形に打ち延ばす」という製法で作られています。
重さ
11.20グラム 前後
天保小判の金の含有量
金の含有率は56.7%前後
天保小判の歴史的背景
天保小判が発行された1837年は、「天保の大飢饉」が日本全国を襲い、民衆が疲弊し切っていた時期でした。
豪商の米の買い占めによる米価の高騰に憤った元幕府役人による「大塩平八郎の乱」が起きた年でもあります。
一層の金融引き締め・物価高解消を目指し老中水野忠邦が江戸の三大改革の最後「天保の改革」を開始しました。
改革には、改鋳による利潤を目的とした天保の改鋳も含まれていました。
天保の改鋳の大きな特色は、ほんの1,2ヶ月の間にすべての貨幣が改鋳されたことです。
しかしこの効率のよすぎる改鋳はさらなる物価高を引き起こしました。
これまでの改鋳は、時間をかけて通貨量を増やすことでゆるやかなインフレを誘発してきました。
その結果として、人々の暮らしは好転することが多かったのです。
天保の改革・改鋳の後、過剰な質素倹約が嫌われた水野忠邦は失脚。
そして13代目として後藤庄三郎一門の跡取りだった「後藤三右衛門光亨」が賄賂発覚によって処刑されました。
このように江戸幕府が衰退の一途をたどるなか、長州や薩摩のように藩独自での改革を成功させ力を蓄えた藩が出現してきました。
慶長大判の買取相場の目安
過去10年間の天保小判の取引実績を検証してみました!
大手古銭買取店5社の平均取引価格は「15~65万」となっています。
縁起がよい「大吉」の字がある献上小判はより人気が高く高額査定が期待できます。
大判小判マニアなら知っておこう!「13日本の金山がすごい!黄金の国ジパング伝説を生んだ佐渡金山」
日本一の金の産出量を誇り、小判の製造を行う金座があった佐渡金山は、まさに江戸幕府の財政を支えてきた立役者でした。
江戸幕府がスタートした直後の1601年に開山され、、1603年には徳川幕府直轄の天領となりました。
最盛期の金山関係者は5万人!
最も産出量が多かった時期は、鉱山関係者が約5万人いたといわれています。
労働者たちが暮らしたエリアは「相川」と呼ばれたことから、佐渡金山は「相川金山」とも呼ばれました。
1989年に惜しくも閉山
開山した江戸時代から、閉山した平成までの388年間で佐渡金山からは78トンの金、2,330トンの銀が産出されました。
そしてとうとう1989年に鉱脈枯渇のため閉山となります。
現在では佐渡島の主要観光スポットであり、コロナウイルス騒動で延期となった「東京オリンピック2020」の聖火リレーの通過点に選ばれました。
1年延びてしまいましたが、2021年には聖火ランナーが佐渡金山~北沢浮遊選鉱場跡ルートを走る姿を見ることができます。
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