二朱銀(安政二朱銀)の特徴
二朱銀は、江戸時代末期の黒船来航後に作られた銀貨です。
開国を迫る欧米との貿易取引専用に特化した銀貨でしたが、一般流通も可能とし額面「1/8両」として流通しました。
南鐐二朱銀と区別するため、別に「安政二朱銀」とも呼ばれています。
また、横浜開港準備の一環として作られた銀貨であることから「貿易二朱」という別名もあります。
流通時期
1859年(安政6年)~
発行枚数
706,400枚
おもて面
形状 長方形
極印 「二朱銀」
うら面
極印 「定(陰刻 鋳出された浮き彫)」「銀坐」「常是(陽鋳 彫り出された凹み彫」
上部に左右に丸形がついた「子持ち分銅印」の刻印あり
二朱銀(安政二朱銀)のサイズと重さ
サイズ
縦 27.5ミリ前後 横 17ミリ前後
重さ
13.7グラム前後
二朱銀(安政二朱銀)の銀の含有量
銀の含有率 84.5%前後
二朱銀(安政二朱銀)の歴史的背景
安政二朱銀は、「貿易二朱」という別名のほかに「馬鹿二朱」と呼ばれることもあった銀貨です。
安政二朱銀は一分銀の半分の額面で流通しましたが、しかし銀の純度や重さはその価値以上だったからです。
すなわち安政二朱銀と別の貨幣を両替するだけで利益を得ることができたというわけなのです。
縦の長さが3センチ近い大型銀貨だったことも手伝ってこのような不名誉な名称で呼ばれることになったのでしょう。
そもそもこのような不合理な銀貨が誕生した背景には、1856年アメリカ総領事ハリスの要求通りの金と銀の交換比率を受け入れてしまったことにあります。
日本国内では「金 1に対し銀は5」で交換されていましたが、日本国外では「金 1に対し銀は15」で交換されていました。
つまり当時の日本では、1/3の値段で金が買えたということになります。
日本の小判を買って外国で売る、もしくは日本国内で銀に変えればそれだけで3倍の利益を得ることができたのです。
この有利な金銀交換レートを外国人たちが見逃すはずもありません。
ハリスは「同種同量の原則」を論拠として、
洋銀1ドル銀貨(約27グラム)=一分銀3枚(約27グラム)」
という交換レートを江戸幕府に押し付けてしまいました。
このレートでは最終的に小判(金)交換したとき、銀の含有量が低い洋銀側に3倍もの有利なレートとなってしまいました。
具体的にいえば日本国内では一分銀3枚=小判3/4両(金1.8g)ですが洋銀との交換なら最終的に小判と交換すると「3/4 両=金 5g」で交換できてしまったことになります。
1854年の黒船来航により締結された「日米和親条約」での会談では、当時のドル銀貨の銀純度をベースとしたレート
「洋銀1枚=一分銀1枚」
というまっとうなな交換レートが決定していたにもかかわらずハリスの強引な交渉に幕府は屈してしまいました。
この不平等なレートから脱却すべく、外国奉行水野忠邦を中心とした幕府側が「ならば含有量を1/3に落とした銀貨を作ろう」と考え誕生したのが安政二朱銀でした。
しかし一般通貨として流通されず、しかも銀含有量を1/3に下げた安政二朱銀は、ハリスはじめ外国商人たちに猛反対を受けわずか22日間で発行停止となりました。
この小判流出問題は、1860年におこなわれた「万延の改鋳」によって小判の重さを 1/3 としたことでようやく国際水準と同等になりました。
これよりのち大判小判ほか日本の金貨の大量流出はようやく収束にむかいます。
二朱銀(安政二朱銀)の買取相場の目安
過去10年間の安政二朱銀の取引実績を検証してみました!
大手古銭買取店5社の平均取引価格は「10~30万」となっています。
わずか22日間という、日本史上もっとも短命に終わった銀貨ということもありプレミアム価値はお墨付き!
今後も高額査定が見込めるアイテムとしてぜひ機会があれば手に入れておきたい銀貨です。
大判小判マニアなら知っておこう!「24 大判小判の黒歴史!贋金とは?」
贋金(ニセガネ)作りはお金の歴史とともに始まった
歴史にお金が登場するとともに、始まったのが贋金作り。
古今東西、贋金作りと取り締まる側の攻防戦のエピソードは尽きません。
たとえば世界史でよく知られるのが、ニュートンと稀代の贋金作り「ウィリアム・チャロナー」との対決です。
当時のイギリスは黒船来航当時の日本とよく似ており、銀貨柳州問題に悩んでおり贋金作りの取り締まりは急務だったのです。
結果はニュートンの勝利。万有引力を発見したアイザック・ニュートンは優秀な造幣局官僚でもありました。
そして日本も例外ではなく、民衆による仕業のほか、時には藩、国を挙げて贋金作りに精を出していた時があったのです。
一朱銀(1/4両)5人が死罪!江戸時代のニセガネ作り事件
贋金作りは、幕府の威信にかかわる大問題。
見つかれば極刑は避けられませんでした。
そうとわかっていてもやめられないのが贋金作り。
何の苦労もなく山のような大金が得られるとなれば、あえて危険を冒す気になる人が出てくるのは今も昔もかわりません。
江戸時代に起きたニセガネ事件といえば、1842年(天保13年)に一朱銀を作って使用したという事件がありました。
首謀者グループ5人は全員死罪という厳しいものでした。
1858年(安政5年)には、なんと今の造幣局にあたる銀座関係者による贋金作りが発覚しました。
その額8000両という大規模なもの。
この事件も首謀者や関係者は死罪となりました。
しかし、もっともっとスケールの大きい贋金作りが行われていたのです。
大隈重信VSパークス!贋金作りにピリオドを打った高輪談判
藩をあげて贋金作りを行ったとされるのが薩摩藩です。
琉球救済のためという名目、そして3年間という期限付きで薩摩領内のみで通用する「琉球通宝」が事の始まりでした。
実は当時国内で流通していた「天保通宝 百文銭」と瓜二つの代物でした。
薩摩藩はこっそりと天保通宝の贋金作りを行います。
なにしろ事前に天保通宝鋳造に関わっていた茶釜作りの職人を呼び寄せておく、という周到さでした。
さらには二朱金の偽造にまで着手し、薩摩藩は巨額の富を得た潤沢な資金をもとに薩英戦争ではイギリスと互角に戦い、逆に相手から尊敬を得るまでに。
また幕末から明治維新にかけては、諸外国の脅威におびえ、尊皇派と攘夷派に分かれて内乱状態だった日本。
戦費調達を目的として幕府、そして藩それぞれが贋金作り(純度を低くした悪貨鋳造ともいえます)を行っていました。
これらの動きが諸外国に察知されないわけがありません。
イギリス公使だった「ハリー・パークス」、フランス・アメリカ・イタリア・ドイツとの「高輪談判」によって内乱が終結した後には直ちに明治政府が通貨改革を行うようにとの要求を受け入れました。
そして大隈重信による通貨改革によって、過熱していた日本の悪化鋳造、贋金作りは収まることになります。
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