マルセル・デュシャンのアートスタイル
表現形式
絵画
彫刻(造形)
版画
写真
表現ジャンル
キュビズム
コンセプチュアル・アート
シュールレアリズム
キネティック・アート
マルセル・デュシャン作品の特徴と魅力・評価ポイント
特徴と魅力
マルセル・デュシャンは男性用便器に「Fountain 泉」というタイトルをつけた作品でもっとも世に知られているアーティストです。
そしてこの作品によって、デュシャンは20世紀を代表する芸術家であると評価されています。
はたしてそれはなぜなのでしょうか?
その理由はデュシャンが「知的ゲームとしての芸術」「観念の美」という新しいアートの可能性を示唆したことにあります。
20世紀初頭の時代に「目に見える美しさを描く」ことに疑問を投げかけたことは、アート史に残るエポックメーキングでした。
デュシャンが示したアートに対する姿勢や態度は、現代アートの大きな潮流のひとつ「コンセプチュアル・アート」が鑑賞する側の知性や内面に依存するという仕組み、その原基となりました。
泉はもともとニューヨークのアート展「アンデパンダン展」にデュシャンが匿名「リチャード・マット (サインはR. Mutt」の名で出品したものでした。
実は審査会の理事をつとめていたのがデュシャンです。
このデュシャンの奇行とも思える行動の理由は、出品の理由を知ることでその意義に近づくことができます。
たとえば展覧会のポリシー「無審査 無褒賞」を試してみたのだとしたら?
旧弊な美術界が何の縛りもなくひとつの作品と向き合えることができるのか。
のちの「レディメイド」と呼ばれる既製品のアート化を正当化したのだとしたら?
ただ作品を見せるだけでなく作者の意図を明確に示したい。
ここにデュシャンの真のねらいはあったのかもしれません。
結局「無審査」を謳ったアンデパンダンのポリシーは守られず、泉が展示されることはありませんでした。
即座にデュシャンは理事を辞め、自ら発行していた美術雑誌「ブラインド・マン」で理事会への批判、作品説明を掲載しました。
この時デュシャンに賛同して一緒に理事会をおりたのが、デュシャン作品の最大の理解者でありコレクターでもあった「ウォルター・アレンスバーグ」でした。
ちなみに彼の死後すべての作品はフィラデルフィア美術館に寄付され、デュシャン自身が管理を担当していました。
20代で取り組んだキュビズム絵画、そしてレディメイド(既製品に理由付けをすることでアートとする)を展開した30代以降、デュシャンは全く作品を残していません。
しかし死後に発見された遺作となるオブジェ作品「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」によって、人々は最後までデュシャンが制作者であったことを知ります。
この「遺作」は、限られた人だけが知っていたデュシャンの20年に及ぶ秘密の作業でした。
扉の覗き穴から見える横たわる裸体の女性。
彼女は、私たちにとって何者なのでしょうか?
評価ポイント
デュシャンはキネティック・アートの先駆者として、また現代美術の祖として揺るがない評価を受ける世界の巨匠の一人です。
ポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアルアートなど現代美術の突破口を開いたデュシャンの功績は偉大です。
現代アートの出発点である既成概念を覆そうとする試みは、すべてデュシャンが実行ずみだったといって過言ではありません。
アートの定義やルールとは? 決めるのは誰なのか?
デュシャンはアートの根底を揺るがす問いを作品を通して投げかけてきました。
とはいえデュシャンが作品を発表した当時の状況では、デュシャンの先鋭的過ぎる(ように受け止められた)作品世界に理解を示すのは一部のシュルリアリズムのみでした。
デュシャンの試みへの正当な評価は、1960年代のポップアートやネオダダに属するアーティストたちからの熱烈な支持を得るまで待つことになります。
デュシャンは作品を通して、アートとは作者と鑑賞者の対話であり、デュシャンのいう「観念の芸術」という可能性があることに気づかせたのです。
ただ「美しく見える」ものを描くのではなく、「考えて見るべきものを創り出す」ことこそ、新時代のアートなのだとデュシャンはその作品で証明しました。
マルセル・デュシャンのプロフィール
幼少期
1887年フランスノルマンディーに生まれる
デュシャンの父親は公証人(公的な場でサインの有効性を保証する人)の裕福な家庭で、母は絵画、祖父は彫刻を趣味としていた。
画家のジャック、キュビズムの彫刻家レイモンドのふたりの兄、早世した姉と妹たちがいた。
アートを愛する家族の影響で次第に画家を志すようになった。
しかし当時画家に対する風当たりは強く、良家の子息が携わるには知的レベルが低いと思われる風潮があった。
青年期・学生時代
14歳ごろから水彩画や油彩画をスタートする。
1904年アンリ・マティスやアルフォンス・ミュシャも通った「アカデミー・ジュリアン(パリ国立高等美術学校の予備校)」で学ぶが中退。
その後は兵役短縮をねらって活版工場で働き、除隊後はすでにアート界で活躍していた兄たちのサロンに参加。
創作初期
デュシャンのアーティストとしてのキャリアは画家としてスタートした。
初期の人物画は印象派とフォービズム(1905年から1910年にかけてマティスが属するグループ。強い色彩と激しいタッチが特徴)の影響が強くみられる。
その後は兄たちとキュビズムの一派「ピュトー派」に参加するようになった。ピュトー派はピカソとブラックの追従する形で発足したグループで前衛美術をけん引する立場のグループだった。
1911年「ソナタ「汽車の中の悲しげな青年」製作。この時期にキュビズム的実験に挑戦。
1912年「階段を降りる裸体No.2」製作
当時のデュシャンは「人間の動き」をテーマにしたいと考えてた。
しかし当時ピュトー派がライバル視していた未来派が「スピードの美」で運動に主眼を置いたことから、ピュトー派のメンバーは「階段を下りる」という運動をテーマにしたタイトルをつけることはよしとしなかった。
タイトルの変更を命じられたデュシャンはいたく傷つけられ、予定していた「アンデパンダン展(無審査・無賞・自由出品)」への出品を取り下げた。
グループからも去ったデュシャンだったが、ピュトー派と未来派は和解し同年「階段を降りる裸体No.2」は「セクシオン・ドール(黄金分割)」に出展した。
しかし、この直後からデュシャンは画家としての活動を停止する。
キュビズムグループからの非難を受けた作品だったが、1913年2月-3月、ニューヨークの「アーモリー・ショー(芸術の本場ヨーロッパの最新アート展という位置づけ)」で「階段を降りる裸体No.2」が良くも悪くもセンセーションを巻き起こした。
会場に来た人たちのほとんどがキュビズムに接したのはこのときがはじめてだった。
「これは芸術か?」と大きな論争となったことが絵のセールスにつながり、結果的にデュシャンを有名にした。
またこの展覧会に出品したアーティストが「ニューヨーク・ダダ(第一次世界大戦後の虚無感から既成概念を打ち壊す芸術運動)」の中心メンバーとなってゆく。
創作中期
既製品をアーティストの見方考え方で芸術作品とする「レディメイド」量産時代。
ただしオリジナルはほぼ消失している。
1913年「自転車の車輪」製作。この作品が最初のレディメイドとなった。
1915年「大ガラス (彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)」製作。これがデュシャンの生前発表された最後の作品。
1923年まで製作続けるが未完だった本作はアレンスバーグに売却し、その代金でブエノスアイレスで9カ月過ごした。
1919年「L.H.O.O.Q.」製作
1921年パトロンであり友人だったアレンスバーグ夫妻がカリフォルニアに居を移しニューヨーク・ダダは終焉を迎える。
同年「ローズ・セラヴィ」としてマン・レイ撮影による女装写真に登場。
また「ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしないの」などの自作にもセラヴィの名をたびたび登場させている。
創作後期・現在
完全に創作活動から手を引くと宣言した後、長くデュシャンは忘れられたアーティストだった。
しかし1960年頃ジャスパージョーンズら新進のアメリカ人アーティストが、自分たちがかかげるテーマはすでにデュシャンが挑戦していたことに気づく。
デュシャンの評判が国際的に高まり各国で回顧展がひらかれた。彼のアーティストとしての人生は幸福なものだった。
1923年創作活動の停止宣言。チェスに人生を費やすと述べた。
その言葉通りにフランスのチェストーナメントチームに参加した。
1927年24歳のリディ夫人と最初の結婚。しかし翌年離婚。
1954年マティスの息子の前妻だったティーニー・デュシャンと結婚。デュシャンの死まで続いた。
1963年再評価により急激に評価が高まる。初の大規模な回顧展がカリフォルニア、パサディナ美術館にて「マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィによる、あるいは、の」開催
1966年ロンドンのテート・ギャラリーにて回顧展「マルセル・デュシャンのほとんど全作品」開催。
1968年心不全により81歳の生涯を閉じた。墓碑銘「されど、死ぬのはいつも他人」
創作から手を引いた30代以降はアレンスバーグの絵画取引業をサポートしていた。
アレンスバーグは死後にコレクションをフィラデルフィア美術館に寄贈したが、その管理はデュシャンが担当した。
しかし「遺作」によって、生涯創作活動を継続していたことが判明。
遺言によってフィラデルフィア美術館に寄贈。
1981年高輪美術館および西武美術館にて「マルセル・デュシャン展 反芸術「ダダ」の巨匠 見るひとが芸術をつくる」開催
2004年国立国際美術館にて「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」
2018年東京国立博物館にて「マルセル・デュシャンと日本美術」
マルセル・デュシャンの代表作
- 「階段を降りる裸体 No.2」
- 「泉」
- 「彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも」
- 「遺作((1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ)」
マルセル・デュシャンの市場価格・オークション落札情報
「LHOOQ」 740,000米ドル
既製品に加工(レディメイド) 30.1 x 23.1 cm
2019年11月15日 サザビーズ/ニューヨーク
「チェス盤」 2,573,000米ドル
木製オブジェ 70 x 70 cm
2013年11月4日 クリスティーズ/ニューヨーク
「モンテカルロ債券」 2,405,000米ドル
既製品に加工(レディメイド) 31.1 x 19.4 cm
2015年11月9日 クリスティーズ/ニューヨーク
マルセル・デュシャンの作品と出会える場所
東京国立博物館
「与えられたとせよ 1. 落ちる水 2. 照明用ガス」※通称「遺作」
東京大学教養学部美術博物館
「大ガラス」
※デュシャンによる「大ガラス」制作仕様書「グリーン・ボックス」をもとにして作られたレプリカ。1980年に完成。
京都国立近代美術館
「泉 1917/1964」「パリの空気50cc 1919/1964」ほか多くのレディメイド所蔵
滋賀県立近代美術館蔵
「トランクの中の箱」
マルセル・デュシャンの最新トピックなど
2019年マルセル・デュシャンのトピックといえば、人気デザイナー「マーク・ジェイコブス」がサザビーズに出品した「L.H.O.O.Q.」が74万ドルの落札価格をマークしたことが挙げられます。
デュシャンの特に有名な作品ではありますが、実際のところデュシャンの手が加わっているのはモナリザの写真のコピーに「口ひげを描いた」のみ。
もっともデュシャンの目指したところは「目を楽しませる」のではなく「脳を楽しませる=観念としての美」にありました。
デュシャンの作品は、作品そのものとその配置や、さらに作品の意味を深くするタイトルなども鑑賞ポイントのひとつなのです。
当該作品はそれを如実に表した作品といえます。
また国内においては、神戸市灘区の「兵庫県立美術館」において、「トランクの中の箱(デュシャン作品のミニチュアや写真などが詰められている。デュシャン自身が小さな美術館と称した作品)の全80アイテムを見せる「塩売りのトランク マルセル・デュシャンの「小さな美術館」が開催されました。
中身をすべて見たい!と願っていたデュシャンピアンとしてはこたえられない企画でした。
そしてアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)が、デュシャンを新しく購入したとのニュースもありました。
あらたに絵画など184点と、芸術家たちの肖像写真約1200点がコレクションに加わり、ますます見ごたえある美術館になりました。
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