ロバート・ラウシェンバーグのアートスタイル
表現形式
- 絵画
- 彫刻(造形)
- 版画
表現ジャンル
- コンセプチュアル・アート
- シュールレアリズム
- ポップアート
- ネオダダ
ロバート・ラウシェンバーグ作品の特徴と魅力・評価ポイント
「ロバート・ラウシェンバーグ/Robert Rauschenberg」とはどのようなアーティストだったのか?
そして作品の特徴と魅力をひもといてみました。
特徴と魅力
ポップアート、ネオダダを代表するアーティスト目されているのが、今回ご紹介する「ロバート・ラウシェンバーグ/Robert Rauschenberg」です。
「コンバイン」と呼ばれるモノとモノを組み合わせた立体コラージュ、シンプルな構成の抽象画やシルクスクリーンで知られています。
アーティストとしてのラウシェンバーグの面白さは、デビューから中期までの実験的な作品の数々にあります。
当時の抽象表現主義一辺倒のアート界に反発し、新しい表現方法を自由な発想で展開しました。
- 鑑賞する人の意識を絵を描くことから絵を消すことに逆行させる「ホワイト・ペインティング」
- 絵画とオブジェのコラボレーション「コンバイン」
- アンディウォホールに先駆けて取り入れた「シルクスクリーン」
今見ても古さを感じさせず、逆に新しいものを創り出したいという熱気が伝わってくるかのようです。
また、ラウシェンバーグはほかの人々と多くの悩みを共有できる欠点の多い愛すべきキャラクターでもありました。
子供のころは失語症で悩み、長じてからはアルコール依存症による入院生活も経験しています。
また一度は結婚生活を経験しながら、おなじくネオ・ダダイストと呼ばれた「ジャスパー・ジョーンズ」とカップルだったこともあるバイセクシャルでした。
デビュー当時は、他のポップアップアーティストたちに比べると人気及び知名度が低かったことも長く彼のコンプレックスとなりました。
※パートナーだったジャスパー・ジョーンズとの別れの原因も彼の成功に対する嫉妬だったといわれています。
インタビューの中で自嘲気味に
「わたしがほかのアーティストとうまくやれたのは私が彼らにとって脅威ではなかったからだ」
と答えています。
実際に人に好かれる人物だったそうで、だからこそ長年「ラウシェンバーグ海外文化交流(ROCI ロッキー)」などの組織を運営することができたのでしょう。
非常に先鋭的で難解な作品を残したラウシェンバーグですが、1人の男性としての人物像を知るとまた違った味わいが楽しめます。
評価ポイント
ラウシェンバーグの功績は、1950年代当時最先端アートとされた抽象表現主義を脱却した新しい表現方法を提示したことです。
立体コラージュという技法からポップアート、抽象主義を批判したことからネオ・ダダと、形式上はカテゴライズされているラウシェンバーグ。
しかし、既成概念を乗り越えた自由な発想でアートを楽しんだ作家なのです。
アートに対する彼の信念は
「絵画は芸術と生活の両方に関連している」
というもの。
彼は自分のアーティストとしての使命は、作品を作ることよりも人々の生活とアートの橋渡しをすることだと考えていました。
その発想は一貫してラウシェンベルクが取り組んだ様々なコラボレーションにあらわれています。
たとえば
「ラウシェンバーグ海外文化交流」によって、作家、アーティスト、職人とのコラボレーション
「LACMAのArt&Technologyプログラム」によって、科学者やエンジニアとのコラボレーション
そのほか広範にわたってラウシェンバーグはアートとアート以外の分野を「コンバイン(結合」してきました。
また恋愛対象は男性だったラウシェンバーグですが、20代のころは異性との結婚を経験し子供を授かっています。
もしかしたら彼にとって結婚生活も、異性とのライフスタイルのコラボレーションだったのかもしれません。
ロバート・ラウシェンバーグのプロフィール
「テキサスの労働者階級の家庭で育った」幼少期
1925年 米国テキサス州に生まれる。
電力会社で働く厳格な父アーネスト、倹約家で敬虔なクリスチャンの母ドラのもとに妹ジャネットと幼少期を過ごす。
母ドラは不用品回収で捨てられた衣類などから家族の着るものを作った。ラウシェンバーグは高校卒業まで既製服を着用したことがなかった。
当時のラウシェンバーグは当惑したが後の彼の創作技法である立体コラージュの原点となった。
「ジョン・ケージらと出会いアートに開眼した」青年期・学生時代
1942年 テキサス大学薬理学部に入学するも一年次で退学(カエルの解剖を拒否したためというのが通説)
同年海軍に所属するが、戦闘を拒んだため精神病棟に配属。
1944年 南カリフォルニアのキャンプペンドルトンに駐留。そこで美術館を訪れた経験によってアートに開眼した。
1947年 復員兵援護法(GIビル)により奨学金を得てカンザスシティ・アート・インスティテュート、アカデミー・ジュリアン(パリ)で絵画を学ぶ。
後に結婚するアメリカ人女学生「スーザンウェイル」と出会う。
1948年 ブラック・マウンテン・カレッジ(ノースカロライナ州)でジョン・ケージと交友。
同年ニューヨークに拠点を移しアート・スチューデンツ・リーグに通う。
「コンバイン(立体コラージュ)によって創作スタイル確立」創作初期
1950年 スーザンウェイルと結婚。翌年息子のクリストファー誕生。
愛称トファーをタイトルにした写真作品を残した。
スーザンとの共作による「Sue」などのブループリントの秀作を残した。
1951年 「ホワイト・ペインティング」発表。のちのデ・クーニングの作品を消して白紙に戻す「Erased de Kooning Drawing」の原点。
1952年 彫刻家「Cy Twombly サイトゥーンブリー」と出会ったことでゲイであることを自覚。
スーザンとは離婚することを決意。
同年サイトゥーンブリーと1年半に及ぶヨーロッパと北アフリカ旅行をスタート。
この旅行中に訪れたイタリアで、最初のコンバイン作品が作られた。
1953年 この頃から絵画と物体を組み合わせた「コンバイン」による創作をスタート。
このころジャスパー・ジョーンズと恋愛関係になり、同じくゲイカップルだったジョン・ケージとカニンガムとも親密な友情を築いた。
(ジャスパー・ジョーンズがにわかにアート界から注目されるようになる1961年まで二人の関係は続いた。)
1955年 コンバイン代表作「ベッド」発表。
「創作とおなじく国際交流に情熱を注いだ」創作中期
1962年 コンバインからシルクスクリーン技法での制作に移行。
アンディウォホールに先駆けてスタートした。
1964年 ヴェネツィア・ビエンナーレで金の獅子(最優秀賞)受賞。
1966年 「ニューヨークの実験と芸術(EAT)」設立。テクノロジーベースのアート創作を追求。
初期メンバーはアーティストのロバートホイットマンとエンジニアのフレッドヴァルトハウアー。
以後ラウシェンバーグのテクノロジーへの高い関心は終生続いた。
1970年 フロリダのキャプティバ島にスタジオを設立。
1984年 ラウシェンバーグ海外文化交流(ROCI)スタート。
自己資金を提供し、日本ほか10か国を旅してでローカル芸術をサポート。
「右手のマヒにも負けず創作を続けた」創作後期・現在
1995年 「Waterworks」発表
1997年 「Anagrams」発表
※両作品に使われた画像は、当時の技術としては最高の解像度で作成された。
常に最新のテクノロジーに関心が高かったラウシェンバーグはデジタルカメラと専用プリンターの最新技術を使用した。
同年ニューヨークのグッゲンハイム美術館で回顧展開催。
2002年 脳卒中により右手がマヒ。しかし左手で創作を続けた。
2006年 メトロポリタン美術館で回顧展開催。
2008年 心不全により死去
ロバート・ラウシェンバーグの代表作
「Buffalo II」
https://www.rauschenbergfoundation.org/art/art-in-context/retroactive-i
クリスティーズで88,805,000米ドルで落札された作品。
ケネディ大統領やアポロ宇宙船、コカコーラのロゴなどの写真コラージュ。
50年間個人オーナーが所有しており、まるでアメリカの歴史のタイムカプセルのようだと高く評価された。
「Erased de Kooning Drawing」
https://www.rauschenbergfoundation.org/art/artwork/erased-de-kooning-drawing
絵を描くことから、絵を描く真っ白なキャンバスに向かおうとしたロバート・ラウシェンバーグ。
巨匠「デ・クーニング」が提供した絵をラウシェンバーグが消しゴムで消し去るというパフォーマンスアート
※インタビュー動画あり
「Robert Rauschenberg – Erased De Kooning」
https://www.youtube.com/watch?v=tpCWh3IFtDQ
「Monogram」
https://www.rauschenbergfoundation.org/art/artwork/monogram
ロバート・ラウシェンバーグの代表作とみなされている立体コラージュ。
中古家具屋で買った15ドルの大きなアンゴラ山羊のはく製からインスピレーションを得た。
ロバート・ラウシェンバーグの市場価格・オークション落札情報
「Combine」 5,765,000米ドル
2014年5月13~14日 サザビーズ/ニューヨーク
電球、2つのガラス放射計、ほかコラージュ立体絵画 64.1×39.4×9.5 cm
「Johanson’s Painting」 18,645,000米ドル
麻ひも、額縁、シェービングブラシ、ブリキ缶、ほかコラージュ立体絵画
2015年5月13日 クリスティーズ/ニューヨーク
「Buffalo II」 88,805,000米ドル
油彩+シルクスクリーン 243.8×183.8 cm
2019年5月15日 クリスティーズ/ニューヨーク
ロバート・ラウシェンバーグの作品と出会える場所
滋賀県立美術館(滋賀県大津市)
「ミューズ(「霧のエディション」シリーズ)」
https://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11971
国立国際美術館(大阪府中之島)
「至点」
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2018/40th.html
※開館40周年記念展 「トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために」案内文
東京都写真美術館
「無題 漂白剤シリーズから」
ロバート・ラウシェンバーグの最新トピックなど
同時期に活躍したポップアートの巨人「アンディ・ウォーホル」に比較すると、ロバート・ラウシェンバーグのオークションでの落札額は決して高額とはいえませんでした。
しかし変化が突然訪れます。
2019年大方の予想価格を裏切り、88,805,000米ドルもの高値で取引が成立したのです。
大作「Buffalo II」はなぜこれほどの高額で落札されたのでしょうか。
アート市場がヒートアップしていることも要因の一つですが、サザビーズによれば
「(Buffalo IIと)同程度のスケールとクオリティの作品が市場に出ることは今後ないだろう」
ということが理由のようです。
しかしもしまたとつぜん機会が訪れたら?
そのときアート市場はロバート・ラウシェンバーグの作品にどのような評価を下すのでしょうか。
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