バーネット・ニューマンのアートスタイル
表現形式
- 絵画
- 彫刻(造形)
- 版画
- インスタレーション
表現ジャンル
- 抽象表現主義
- カラーフィールド・ペインティング
バーネット・ニューマン作品の特徴と魅力・評価ポイント
特徴と魅力
バーネット・ニューマンというアーティストやその作品の特徴と魅力をひもといてみました。
シンプルでクールなニューヨークアート
バーネット・ニューマンという名前は知らなくとも、アートポスターなどでニューマン作品と出会っているかもしれません。
ジップと呼ばれる縦のラインだけがあらわされたキャンパスは、シンプルでクール、どんなインテリアにもマッチします。
バーネット・ニューマンは生まれながらのニューヨーカー。
裕福な家庭の跡継ぎ息子して育ったバーネット・ニューマンは貧しく苦しい少年時代とは無縁でした。
(実際には兄がいて(幼いころ亡くなった)、事業を継いだのは弟でしたたが)
同時代のニューヨーク出身のユダヤ人アーティストは、東欧からの移民であるマーク・ロスコはじめ多くがいわば異邦人でした。
生前高い評価を得たとはいえなかったニューマンが、どこまでも作品に求めた「崇高(the Sublime)」という精神性を追求することができたのかもしれません。
人生の円熟期にスタートした芸術家人生
全てのアーティストは、物心ついてすぐ絵筆やノミを手にして自分の作品を作り続けるものなのでしょうか。
実はそうとも限りません。
ゴーギャンが絵を描き始めたのは20代半ば、伊藤若冲が絵の修業を始めたのは30歳を過ぎてからでした。
今回ご紹介する「バーネット・ニューマン」がアーティストとして本腰を入れて活動をスタートしたのは、なんと40歳。
ニューヨークの抽象表現の中核をなしたニューヨークスクールで知られる「ベティー・パーソンズギャラリー」で初個展を開催した時には脛に45歳でした。
敬虔なユダヤ教信者としての生活、大恐慌や世界大戦という過酷な経験を乗り越えた人生の円熟期にニューマンは芸術家としての道を歩み始めました。
信仰の壁を越えてアートの道を進んだニューマン
バーネット・ニューマンの遅咲きの理由のひとつに彼がユダヤの人であったことも影響しているかもしれません。
多くのユダヤ人はモーゼによる「十戒」の戒律を厳しく守る人々ですが、イスラム教同様に「偶像礼拝」を厳しく戒めています(二戒)。
つまり絵を描いたり像を彫ったりする行為そのものが、ユダヤ人にとっては戒律を破ることにつながりかねないのです。
ニューマンも絵を描くことを生業とすることに多くの葛藤があったことでしょう。
数多いユダヤ系アートディーラー、アートコレクターの存在を考えると矛盾を感じるところですが。
評価ポイント
いくつかの色の帯を並べた(マルチフォーム)スタイルがマーク・ロスコ流とするなら、
縦に走る色の柱「ジップ」で世界の融合を表現したのがバーネット・ニューマンです。
ニューマンは、作品を鑑賞するとき抱く感情は、自分自身が創作時に体験した宗教的経験と共通しているという考えを持っていました。
それがニューマンがいう「the sense of place」です。
ニューマンが信仰するユダヤ教は一切の偶像崇拝を許さず、人と神はいわば一対一の関係です。
自身の作品を見る観客に対し、作品の前に立つ「the sense of place」で自分の存在を感じてもらいたいと願っていました。
作品を見る人の感情を喚起する瞑想的・神秘的な、宗教や神話の要素を持った絵画表現を追求しました。
このようにバーネット・ニューマンの最大の功績は
「伝統的な絵画の知覚様式を根本的に変えた」
ことにあります。
また哲学に造詣が深いニューマンは抽象芸術の精神的な可能性を追求し、多くの著作物を残しました。
これらの著述活動は、一切の饒舌を禁じた絵画や彫刻作品を埋め合わせるかのようにニューマンの芸術への思いや考えを後世に残す役割を果たしています。
バーネット・ニューマンのプロフィール
「恵まれた子供時代を過ごす」幼少期
1905年ユダヤ系ポーランド移民の両親のもとに生まれる。
ジョージ、ガートルード、およびサラの弟妹とニューヨークで育つ(長男は幼いころに夭逝)
両親の服飾ビジネスは順調で典型的なユダヤ人富裕層の一員として高い教育を受ける。
「絵よりも文筆活動に重きを置いた」青年期・学生時代
1923年アメリカで最も古い公立大学「ニューヨーク市立大学シティカレッジ」で哲学を専攻。
同時に「アートスチューデントリーグ」で絵画を学ぶ。
1927年父親の会社に参加する。しかし1929年の大恐慌により事業は傾く。
美術教師としても働き、ミルトン・エイブリーやマーク・ロスコと知り合う。
この時期はアーティスト活動よりも文筆活動に注力。
1934年妻アナリーと結婚。
「代名詞ZIPが誕生!しかし絵は売れない」創作初期
1948年エポックメーキングとなる「Onement I」を製作。
ニューマン作品細田の特徴である縦のライン「ジップ ZIP」が登場。
ジップは作品を分割するのではなく融合するためにあるもの、としている。
ニューマンはこの作品以前のもの(稚拙な抽象作品、と彼自身は感じた)はほとんど廃棄した。
以降妻アナリーはニューマンが創作活動に専念できるよう教師の仕事によって生計を担うこととなる。
それはニューマンの絵画が一貫して売れ始めた1950年代後半まで続いた。
1950年マーク・ロスコらのサポートにより最初の個展をニューヨーク・スクールの総本山「ベティパーソンズギャラリー」で開催。
著名な批評家「クレメントグリーンバーグ」が絶賛。
しかしこのときも翌年開催時にも作品はほとんど売れなかった。
※ニューヨークスクールとは、1950~60年代のニューヨーク抽象表現主義者の中核をなすアートグループ。
オサムグッズで知られるイラストレーター「原田修」の師匠である洋画家・抽象画家「川端実」が参加していた。
「徐々に作品が売れるようになる」創作中期
50歳を過ぎても売れた作品はわずか数枚という不遇の時期が続いたが、1950年代後半から徐々に絵が売れ始めた。
1964年最高傑作と名高いキリスト受難をイメージした「十字架の道行き」完成。
実は1958年に最初の2点を書き上げたときは連作シリーズの予定はなかった。
「最高傑作十字架の道行きが完成」創作後期・現在
1966年グッゲンハイム美術館で「十字架の道行き」個展開催。
このときキリスト復活を示唆する「存在せよⅡ」を加えて15点を展示した。
1970年心臓発作のため亡くなる。
ニューマンの死後も彼の功績をたたえ、さらに注目度は高まっていった。
1985年にはアメリカ人コレクターが1952年作「ユリシーズ」が1,595,000ドルで購入。
その後現在に至るまでオークションのハイライト作品として100万ドル台落札価格が相次いでいる。
バーネット・ニューマンの代表作
「十字架の道行き」
原題「The Stations of the Cross」は、古くから教会の祭壇を飾る絵画の主題。
キリストが十字架に磔になるまでの出来事を14枚の絵画におこしたもの。
「存在せよⅡ」
1961年に創作後、「十字架の道行き」作成後にキリスト復活の意味のニックネームで呼ばれた作品。
1964年に加筆され改めて本題がつけられた。
ユダヤ教における創造物に対する神の命令「Be 存在せよ」がタイトルの意味。
また1966年のグッゲンハイム美術館での単独個展開催時には「なぜ我を見棄てたもう(レマ・サバクタニ)」というサブタイトルがついた。
「ブラックファイア」
クリスティーズでニューマン作品最高額84,165,000米ドルをマークした作品。
フィラデルフィア美術館収蔵作品だった。
対をなす「White Fire」はイスラエルの企業がコレクション。
「Cantos」
ニューマンが遺した作品数は329点、うち絵画は118点に過ぎない。
ブロークオベリスクなどの造形彫刻作品のほか、版画(エッチング リトグラフ)も多く作成した。
Cantosはアメリカの著名な版画工房である「ユニヴァーサル・リミテッド・アート・エディションズ(ULAE)」が担当した18枚のリトグラフ作品。
Cantoとはイタリア語で詩を構成するパラグラフを意味し、ニューマンは一枚ごとに音楽のイメージを重ねた。
「ブロークンオベリスク」
4バージョンある3トンもの鉄で制作された彫刻作品。
最も有名なブロークンオベリスクはロスコチャペルのもの。マーティンルーサーキングにささげられた。
ほかワシントン大学、ニューヨーク近代美術館、ストームキングアートセンター(NYの世界有数の彫刻公園)
バーネット・ニューマンの市場価格・オークション落札情報
「ONEMENT VI」 43,845,000米ドル
油彩 259.1 x 304.8 cm
2013年5月14日 サザビーズ/ニューヨーク
「BY TWOS」 20,605,000米ドル
油彩 168.3 x 40.6 cm
2013年11月13日 サザビーズ/ニューヨーク
「ブラックファイア」 84,165,000米ドル
油彩 289.5 x 213.3 cm
2014年5月13日 クリスティーズ/ニューヨーク
「Onement V」 22,482,500米ドル
油彩 152.4 x 96.5 cm
2012年5月8日 クリスティーズ/ニューヨーク
バーネット・ニューマンの作品と出会える場所
国立国際美術館(大阪市)
「夜の女王 I」 油彩、カンバス 244.0×48.0
※DIC川村記念美術館(千葉)が赤で塗りつぶされた巨大絵画「アンナの光 1968年作」を所蔵していたが2013年に惜しくも売却された。
DIC川村記念美術館には「ロスコ・ルーム」と対をなす「ニューマン・ルーム」があった。
バーネット・ニューマンの最新トピックなど
2015年にMIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市) で開催された「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」でバーネット・ニューマンをはじめて知ったバーネットファンは多いようです。
代表作「十字架の道行き」ほか「存在せよ Ⅱ」15点ものバーネット作品が集結するとあって、現代美術ニューヨークアートファンが駆け付けました。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーの改修による休館、という時期だったからこそ実現した展覧会であり、非常に貴重な機会となりました。
ちなみにミホミュージアムを設計した「イオ・ミン・ペイ (I.M.ペイ)」は妻アイリーン・ルーとともに世界的なアートコレクターでもあります。
彼が亡くなった2019年には膨大なコレクションがオークションに出品されるというニュースは多くのメディアを賑わしました。
目玉アイテムとなったバーネット・ニューマン「Untitled 4」は予想落札価格8,000,000米ドルを大きく上回る10,490,000米ドルで落札されました。
母アンナの死を悼んだ巨大海外「アンナの光」が売却された今、国内のバーネット作品は大阪の国立国際美術館の「夜の女王 I」のみです。
大阪を訪れる機会があればアートファンならぜひ鑑賞しておきたいですね。
コメントを残す