日本の謎めく古代ガラスの歴史をひもとく!
前回ご紹介した通り、古代に華やかなガラス文化が花開いた日本。
そして今日ではガラス産業において多くの分野で世界トップシェアを占めています。
(板ガラスと液晶ガラスでは「AGC(旧旭硝子)」「日本板硝子」がベスト3入り)
名実ともに世界一のガラス大国となった日本では、弥生時代以降とだえることなくガラスが作られてきたのでしょうか?
実は日本のガラスの歴史には長い空白の時間もありました。
でば日本のガラスの歴史の大まかな流れをまとめてみましょう。
- 縄文時代 ガラスの発現なし(が定説)
※青森県の亀ヶ岡遺跡、是川遺跡の縄文時代の地層からガラス遺物が発見され「縄文ガラス」発見と話題を呼んだ。
しかし弥生時代のものが混入したのではという説が有力。 - 亀ヶ岡遺跡の遺物の硝子は高い技術が使われていた。角張った丸玉ビーズで緑色の地に白い紋が散る凝ったデザイン。肉厚のガラス管を切断し引き延ばしたと考えられる。
- 弥生時代 日本全国でガラス玉の発掘事例、ガラスを加工した炉の跡の発掘事例あり
- 古墳時代 インドパシフィックビーズの大量発掘
- 飛鳥~奈良時代 国産ガラスの生産スタート
- 平安時代~室町時代前期 陶磁器隆盛によりガラス製作衰退
- 室町時代後期~江戸時代 南蛮貿易によってガラス製作復活
- 明治時代から現在
はたして平安時代~約600年間のガラス製作が断絶した時期は何だったのか?
大きな疑問が残ります。
しかし実はほかにもっと深い謎が隠されていたのです(正倉院のガラスの謎)。。。
今回は日本の古代から近世にかけての誰もが知るガラスにまつわるエピソードについてご紹介します。
ペルシア渡りの「沖ノ島(宗像大社)」の古代ガラス
日本国内でのガラスの製造が始まるのは7世紀後半(飛鳥時代)。
それまで日本にあったガラスはすべて外国から運ばれてきたものでした。
沖ノ島(福岡県 宗像大社)で発見された国宝ガラスもそのひとつです。
しかし問題は「どこからやってきたのか?」「どこでつくられたものなのか?」ということ。
円形の突起が切り出された容器片「カットグラス碗(わん)片」は器の形の特徴からササン朝ペルシアのものであるとほぼわかっていましたが、細長い形状で中心に糸を通す穴が開く「ガラス製切子玉」の産地や作成時期については論争の的となってきました。
1950年代に発見されてから長く推測の域を出ませんでしたが、2020年の調査により「ササン朝ペルシア(3~7世紀)時代」「メソポタミア地方」のものとであることが分かったのです。
組成元素を調べる最先端蛍光エックス線分析を使った、東京理科大、岡山市立オリエント美術館との共同研究による成果です。
「海の正倉院」とも呼ばれる沖ノ島では、4世紀後半~9世紀にかけて国家的祭祀が営まれれてきました。
大陸から運ばれてきた奉献品約8万点が国宝として大社の神宝館に所蔵されています。
最初は存在しなかった!「正倉院」の古代ガラス
聖武天皇のゆかりの宝物が収められている正倉院。
現在以下の六つのガラス器
- 「白琉璃碗」
- 「紺琉璃坏」
- 「白琉璃水瓶」
- 「緑琉璃十二曲長坏」
- 「白琉璃高坏」
- 「紺琉璃壺」
および「雑色瑠璃玉」ほかガラス小片が保存されています。
正倉院に収められたガラスは、小片を除きすべてササン朝ペルシアを中心に作成された古代のガラス器です。
しかし、実は最初から正倉院におさめられたものではありませんでした。
聖武天皇のおきさきである「光明皇太后」が正倉院に施入した合計740点の宝物リストにガラス器は一切なかったのです。
しかもその後天平年間で計5回わたって東大寺に奉献された宝物(東大寺献物帳に記録)リストの中にも、現在正倉院の宝物とされる6個のガラス器の記録は残っていません。
実は現在正倉院宝物とされるガラスはすべて平安時代から明治時代までのあいだに「いつのまにか」正倉院に収められていたものであり、その経緯は一切残されていないのです。
正倉院ガラス器を復元した吉水常雄市の著書「正倉院ガラスは何を語るか – 白瑠璃碗に古代世界が見える」によって、謎の全貌を知ることができます。
奈良時代のガラス玉が一杯!「平等院鳳凰堂」の謎
奈良時代に入ると官制のガラス工房(聖武天皇以降は内匠寮)で盛んにガラス製品が作られるようになりました。
当時のガラスの製法は正倉院に保存されている「興福寺西金堂」の造営史料に残されています。
行ってみよう!
興福寺 西金堂へのアクセス
しかしその後平安時代から室町時代には、ガラス製造の記録が全く残されていません。
枕草子などの物語にはガラスと思しきものが登場するため、貴族の間ではなんらかのガラスが利用されていたようですが、それも記録にないためさだかではありません。
しかし当時建立された寺社からは、多くの奈良時代のガラス玉が発見されています。
たとえば2010年に「平等院鳳凰堂(京都府宇治市)」の阿弥陀如来坐像(国宝)の台座から約190個ものガラス玉が見つかりました。
しかも見つかったガラス玉は、奈良時代のものであり正倉院宝物の中のガラス玉と着色技術(緑と青)や原料成分が同一であることがわかったのです。
平安時代中期1053年に建立された平等院鳳凰堂を建てたのは藤原頼通。
聖武天皇のきさき光明皇后は「藤原不比等」の娘であり、光明皇后の実家筋にあたります。
ひそかに正倉院ガラス技術が伝えられたのか?
それとも秘宝として藤原家にガラス玉が受け継がれていたのか?
謎は深まるばかりです。
他にも同種のガラス玉が奈良市の興福寺や元興寺でも見つかっています。
江戸時代から現在のガラス
奈良時代を最後にく途絶えていた日本のガラス製作が復活するきっかけとなったのが南蛮貿易です。
1549年の「フランシスコ・ザビエル」来日時にヨーロッパ製ガラス器やメガネ、望遠鏡などがもたらされました。
そして徐々に国内でもガラス作りが復活しました。
まず南蛮貿易の入り口だった長崎から薩摩ほか九州全般、そして大阪や京都、江戸においてもガラスが作られるようになりました。
しかし、鎖国状態だった江戸時代には海外の優れたガラス製品を職人たちが手に取る機会は限られていました。
また陶磁器や漆器の技術が高かったため、当時の割れやすいガラス(不透明の鉛ガラス)はさほど人気がありませんでした。
日本のガラス工芸が花開くのは、開国後の明治期に入ってからのことです。
ヨーロッパのカットグラス技術、丈夫な硝子製法「ソーダ石灰製法」を取り入れた高度なガラス工芸が花開きました。
江戸切子(東京)」「薩摩切子(鹿児島)」「天満切子(大阪)」が代表する日本のカットグラスは輸出品としてももてはやされました。
※ガラスを指す言葉に「びーどろ」「ぎやまん」はこのころ生まれたものです。
もともと「びーどろ」は吹きガラスの製法で作られたもの(佐賀(鍋島)藩の肥前びーどろなど)
「ぎやまん」は輸入ガラス製品や切子を施したものを指していました。
「アイヌ玉」と「琉球玉」
日本本州から海を経た北海道と沖縄では、独自のガラス文化が育まれました。
それが「アイヌ玉」と「琉球玉」です。
人々の信仰の対象あるいは主君から下賜されたものとして重要な宝物として貴ばれてきました。
アイヌ玉
アイヌ民族のイコロ(宝物)のひとつが「アイヌ玉」です。
直径3センチを超す大型の青いガラス玉(青玉)で、重要な儀式の際に女性が身につける「タマサイ(ネックレス。玉を連ねたものの意味)」のセンターを飾りました。
最も古いアイヌ玉は15世紀頃のアイヌ民族の墓とされる「余市町大川遺跡」で発見されました。
アイヌ玉は「ロシアのアムール流域」「中国」「本土(江戸玉 摂津玉)」で作られました。
作られた場所に関係なく、アイヌが済むエリアでアイヌが用いることによってすべて「アイヌ玉」と呼ばれました。
琉球玉
「琉球玉」は沖縄を訪れない限り出会えない最も希少価値の高い琉球独自の古代ガラスです。
「首里城記念館」「久米島文化センター」などの県内の公的機関が保存するにとどまり、所有する個人コレクター数も県内外合わせても30人を超えません。
主に「御玉貫(ガラスビーズを糸で綴り表面を飾った錫製のびん)」などに使用され、琉球王より限られた家臣に下賜されたと考えられています。
また琉球国王の王冠だった国宝「玉冠(たまのおかんむり)」にも琉球玉が含まれる可能性があります。
首里府直轄の公営工房で作成されたビーズ、交易による渡来ビーズが混同していることが分かっています。
謎めいた日本のガラスの歴史
遠くメソポタミア・エジプトから届いた古代ガラスからはじまった日本のガラスの歴史。
弥生時代に生きた人々たちが、すでにガラス作りを始めていたことに驚かされます。
途中ガラス製作の歴史に謎の断絶がありながらも、切子やびいどろなど日本独自のガラスが誕生し、ガラスの歴史を彩りました。
切子ほか優れた日本の硝子はアンティークとしても高い価値を約束されています。
大切に守り育てていきたいですね。
参考文献・サイト
日本の文献
谷一尚「ガラスの比較文化史」「ガラスの考古学」「世界のとんぼ玉」「古代ガラス 銀化と彩り」
吉水常雄「古代ガラス」「正倉院ガラスは何を語るか – 白瑠璃碗に古代世界が見える」
ほか
海外の文献
Julian Henderson「Ancient Glass: An Interdisciplinary Exploration」
他
参考サイト
奈良文化財研究所 https://www.nabunken.go.jp/
東京国立博物館 https://www.tnm.jp/
中近東文化センター http://www.meccj.or.jp/
他
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