金本位制度崩壊と西ドイツ

金本位制度とは?

以前、「金本位制度の崩壊のきっかけはドイツ(西ドイツ)」と記したところ、「その経緯を詳しく知りたい」という問い合わせがありました。

かなりの割愛になりますが、今回はその説明をしてまいりたいと思います。

金本位制度の本来の意味はドルと金の交換保証

金本位制度の崩壊は、言うまでもなく、ベトナム戦争の戦費調達によって、アメリカの財政赤字が拡大したことが原因です。

このメカニズムを簡単に説明しましょう。

まず、戦争をすれば莫大な軍事費がかかり、それが財政赤字拡大につながるところまでは大丈夫かと思います。

財政赤字の拡大は国の信用を傷つけますので、ドルの価値を押し下げるという点は大丈夫でしょうか?

ここまでは今後も何度も出てきますし、慣れれば簡単に理解でき、金の値動きの理解につながりますので、しっかり押さえておいてください。

さて、ここからが通常と違います。

まず、ドルと金の交換を保証する、これが国際的に1972年まで続いた金本位制度の意味になります。

例えば、日本人が手持ちの円を銀行に持って行くと、定められたレートで金に換えてくれるのですが、金本位制度の本来の意味は、ドルと金の交換の保証です。

つまり、日本政府が100億ドル保有していれば、アメリカ政府は100億ドル相当の金に交換してくれることを金本位制度と言います。

日本円と金の交換は、厳密に言えば金本位制度ではありません。

当時の西ドイツとアメリカの関係

旧西ドイツの通貨であるマルク紙幣

西ドイツには有名なフォルクスワーゲンという車があり、アメリカに大量輸出されていた反面、アメリカ側には輸出できるようなものがありませんでした。

そのときの金利はアメリカが4%、西ドイツマルクが7%で、現在と違うのは1ドルが360円のレートであったように、マルクも固定レートだった点です。

つまり、外貨預金につきものの為替リスクが存在しませんでした。

この場合、「皆さんなら、どうしますか?」ということです。

ドルの価値は固定されていますが、ドルの価値は実質下がっており、また、アメリカはフォルクスワーゲンに対して購入対価を払いますので、西ドイツにはドルが貯まります。

そして、時間の経過とともにドルの価値は下がりますので、西ドイツ政府はできるだけ早くドルを売却して金を購入したいと考えました。

また、アメリカ人であれば手持ちのドルを売り払い、西ドイツのマルクを買えば、預金の利率が4%から7%になります。

こういう取引を、一般的にはキャリートレードと言います。

そして現在同様、ドルの価値が下がれば、金価格は上がることになります。

金本位制度崩壊前夜のドルと金

当時のアメリカ政府は西ドイツに兌換要求されても金を売却できなかった

当時は金もドルも固定レートでしたので、その価値は変化しません。

しかし、表示されるドルのレートや金のレートは変化しませんが、実際は金の価値は上昇し、ドルの価値は下落します。

当時この仕組を知っていた人は、いずれドルの価値は切り下がり、金の価値は切り上げられるだろうと思っていたのです。

ですから、西ドイツ人もアメリカ人も手持ちのドルを金に換えたいと考えていました。

しかし、アメリカはドルの発行に対して金の保有を40%持つと国際社会に約束していたので、これ以上、政府保有の金を売却できなかったのです。

そのときに西ドイツ政府に交換を要求されれば、売却できません。

実際には、西ドイツ政府は売却を要求しなかったのですが、世間は西ドイツがアメリカにドルと金の交換を要求をするだろうと予想していたのです。

ドルと金の兌換停止発表の影響

ニューヨークにある蝋人形館マダムタッソーのリチャード・ニクソン元大統領の蝋人形

西ドイツ同様、フランスやイギリスも、いつドルを切り下げ金を切り上げるのか待っていたのですが、1971年8月15日のニクソン大統領による金とドルの兌換停止の発表までパニック状態だっただけの話です。

これは事前告知もありませんでした。

その後、イギリスは早々に金本位制度から離脱し、イタリアはその仲間にもされなかったことを怒っています。

ですから、ドイツが金本位制度を崩壊させたというのは、当時の西ドイツのドル保有量を見れば、そうなることを予想するのは別に間違いではないと思います。

このニクソンの発表直後に、アメリカ人旅行者がヨーロッパでドルでの支払いを拒否される事態が起きています。

中でも、アメリカ資本のインターコンチネンタルホテルでドルでの支払いを拒否されたのは衝撃的なニュースとなりました。

発表の翌日、当時の財務次官であるポール・ボルカーがロンドンに飛び、各国に説明を行っています。

日本の担当者はバカンスの最中で、ロンドン滞在が急に公務になったことが有名です。

ちなみにボルカーは、リーマンショックの後にオバマ大統領が定めた金融ルールであるボルカールールが有名ですね。

西ドイツが金本位制度崩壊の原因の真相

会議場として使用され「スミソニアン体制」の由来となったワシントンD.C.のスミソニアン博物館

実は上記のボルカーと当時の西ドイツの財務大臣シュミット(後に首相)の間で、このニクソンショック前に合意が交わされています。

ボルカーのドル切り下げ要求に対して、シュミットは手紙で「西ドイツの経済は共産主義との闘いにおいてNATOおよびアメリカから恩恵を受けているので、12%のドル切り下げに応じる」と回答しています。

当時、アメリカに対抗するためNATOを脱退していたフランスが5%しか認めていなかったのに対し、西ドイツは12%を無条件で飲むというのです。

つまり、西ドイツはアメリカの衰退に十分憂慮を示し、そして理解をしたので、西ドイツの金交換要求が金本位制度を崩壊させたというのは実際にはうわさのままだったことになります。

これが世に言うスミソニアン体制の始まりです。

金本位制の崩壊と日本

金本位制の崩壊を受け1ドル308円の固定レートに変更された

ボルカーは、各国一律ドルに対して15%の切り下げを求めましたが、円は1ドル360円から308円の固定レートに変更されました。

約16%の切り下げになり、これは当時の日本の国力を物語っていると言えるでしょう。

首相は田中角栄、大蔵大臣は愛知揆一になります。

また、金の切り上げも行われ、35ドル/トロイオンスから38ドルになっています。

約8%ですから、いかに日本円の切り下げがひどかったか、おわかりになると思います。

ただ、日本はそれだけトヨタ、ソニーなどで儲けていたということも忘れてはなりません。


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