安政小判の特徴
安政小判は、日本から海外へ大量の小判が流出することを防ぐために作られました。
これまで改鋳による新小判発行の目的だった財政難解消とは大きく異なります。
安政・万延に続くこの時期の小判には、小判流出を阻止するという大義名分があり
金の含有量こそ低いけれど、当時の日本財政を救う大きな役割を果たしたのです。
また安政小判は別名「正字小判」と呼ばれていました。
発行数が少ない上にすぐ回収されてしまったため、市場に出回ることがほとんどないレアな小判です。
流通時期
1859年(安政6年)
※改鋳のたびごとに通用停止とする触書を出すも、幕末に至るまで通用された
発行枚数
351,000両
※一分判(1/4両)との合計
おもて面
形状 一般的に「小判形」と広く使われるだ円形
表面 墨書を極印に改める。全体的に打目(のし目)が彫られる。
※金の純度を示すために金をたたいて伸ばした。また装飾、偽造防止の意味も含む。
極印上下 扇枠に囲まれた五三桐(ごさんのきり)
極印中央 上下に方形枠に囲まれた「光次(花押 明朝体)」の極印 中央に「壹両(=「壱両」)」の極印
極印下部 左下に金座・小判師の験極印(直径8.5~9mmの花押) 左右に吹所棟梁の小験極印1~2個 両替屋の刻印が複数ある場合も
うら面
極印中央 直径11~13mmの「光次(花押 草書体) 」の極印
極印下部 左下に金座・小判師の験極印 吹所棟梁の小験極印 「政」の打印(大吉など縁起の良い組み合わせの小判は七福小判と呼ばれ人気があった)
安政小判のサイズと重さ
サイズ
縦 58ミリ前後 横 30ミリ前後
※小判は、サイズに多少の差が生じます。
鋳型に流し込んで作るのではなく「金塊をたたいて薄く延ばす → 金の板を一両分の重さに専用のはさみで切る → 小判の形に打ち延ばす」という製法で作られています。
重さ
9.0グラム 前後
安政小判の金の含有量
金の含有率は56.9%前後
安政小判の歴史的背景
安政小判が発行された背景には、開国によって不平等な金銀交換比率によって、巨額の小判流出に歯止めをかける意味合いがありました。
なにしろ日本の小判を銀貨に変えてまた小判に両替するだけで、実質利潤が3倍になるほどの不平等さでしたから、幕府が躍起となるのも当然でした。
そこで金純度をそのままに10グラム以下まで重量を下げた安政小判の誕生と相成ったのでした。
しかしながら、この政策に暴利をむさぼっていたハリスら外国人大使は激しく抵抗。
3か月も経たないうちに製造停止の憂き目にあってしまうのでした。
安政小判の買取相場の目安
過去10年間の安政小判の取引実績を検証してみました!
大手古銭買取店5社の平均取引価格は「70~90万」となっています。
激動の幕末の歴史の中で、欧米の圧力に対抗するうえで重要な役割を果たした安政小判。
歴史的な価値があり、最も手に入りにくい小判のひとつという希少価値も魅力です。
大判小判マニアなら知っておこう!「14日本の金山がすごい!知る人ぞ知る土肥金山」
土肥金山(静岡県伊豆市)
日本で最も名を知られ産出量ナンバーワンだった佐渡金山の次に多くの金を産出していたのが「土肥金山」です。
1965年の閉山まで国内第2位の産出量を誇っていた代金山でした。
「土肥千軒」と呼ばれるほどの隆盛を誇る
土肥金山は江戸幕府で金山奉行をつとめた「大久保石見守長安」が新しい技術を積極的に導入したことによって産出量が大幅にアップしました。
当時の土肥金山周辺には労働者や商家が多く並び、その栄えるさまを「土肥千軒」とあらわしたほどでした。
土肥金山の歴史の裏の悲劇!長安一族のお家断絶
いわば土肥金山隆盛の立役者であった長安でしたが、かれが1613年2亡くなった後一族には大きな不幸が襲います。
豊臣側だった「大久保忠隣」と家康側だった「本多正信・正純父子」の対立に巻き込まれてしまったのです。
不正蓄財や幕府転覆の嫌疑が掛けられ、お家断絶、7人の子供はみな死罪になってしまいました。
土肥金山に第二の黄金期が到来!
しばらく勢いを失った土肥鉱山ですが、明治に入って第2の黄金期を迎えます。
1906年(明治39年)に神戸の実業家「長谷川銈五郎」がふたたび土肥金山の金掘削に渡来したのです。
彼はヨーロッパの鉱山技術者を招聘し、当時最高水準の技術を導入して土肥金山の復活を見事成し遂げることに成功しました。
現在では鉱脈枯渇により閉山され、鉱山の跡地には観光坑道として一般公開されています。
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