万延大判の特徴
万延大判金は最後につくられた大判です。
また最初から通貨として作られた最初で最後の大判でもあります。
発行後ほどなくして明治の世の中に移り、新政府によって新しい通貨発行の材料として大判・小判が回収されました。
今残っている万延大判は、蔵に忘れられていたなどの理由でたまたま残ったものに限られます。
非常に希少な存在なのです。
流通時期
万延元年(1860年)~文久2年(1862年)
発行枚数
17,097枚
表書き
表面のござ目はたがね打ちとのし目打ち(1860年4月29日から1861年7月10日発行分)の二通り。
墨判は「拾両後藤(花押)」。十七代典乗
※花押とは簡略化された署名のこと。製造責任者のサインにあたる
裏書き
上部に丸に五三裸桐紋極印、丸と亀甲枠に五三桐紋極印、丸枠
に後藤宗家当主の花押極印
左下部に小極印(判金の製作に従事した判師・延屋(のべや)、ないし金見役の験極印(しるしごくいん)
※現在見つかっている験極印の組み合わせは「恒・宇・吉」「伊・宇・き」「吉・宇・き」「吉・安・大」「吉・宇・き」「吉・安・大」
側面
耳桐(大判10枚相当を重ねて丸に五三裸桐紋が打たれる)
※削り取りの防止措置と考えられています
万延大判のサイズと重さ
サイズ
長径15cm前後 短径9cm前後 厚さ1㎜前後
重さ
165g
※大判に墨で書かれた「拾両」は重さをあらわしています(44匁=165g)。
1両小判10枚をあらわすものではありません
万延大判の金の含有量
金の含有率は37%前後
万延大判の歴史的背景
最後の大判「万延大判」が登場した背景
万延大判が登場した理由には、黒船来航により欧米諸国の要求に応じ開国せざるを得なかったという背景があります。
この時締結されたのが日本に不利な条件による日米和親条約です。
この条約で決定された為替レートによって、日本の純度の高い大判小判が大量に海外流出しました。
欧米列強が大判小判でもうけたカラクリ
簡単に言えば、大判小判をはじめとする日本の金貨を銀(メキシコペソ銀貨)と交換するだけで3倍になったのです。
当時の日本では、金と銀の交換比が1:5で設定されていました。
しかし日米和親条約締結時に国際レートである1:15が適用されてしまいました。
当時ペリーをはじめとする欧米の高官たちが、やっきになって日本の大判小判を買いあさったのも無理はありません。
この時海外に流出した金貨の量は小判にすると数十万枚になったのではないかという説もあるほど。
この事態を打開すべく金の含有量を三分の一に下げることでやっと日本の金流出がストップしたのです。
庶民生活は恐ろしいほどのインフレに見舞われ、倒幕、そして明治維新へ向かう原動力のひとつともなったのですが。
慶長大判の買取相場の目安
過去10年間の元禄大判の取引実績を検証してみました!
大手古銭買取店5社の平均取引価格は「550~850万」となっています。
大判は今も昔も富の象徴して、ラッキーアイテムとして人気があります。
高島屋、三越伊勢丹、大丸松坂屋など主要デパートで開催されている「大黄金展」では2019年には縦1メートルの令和大判が登場したことで話題となりました。
大判は貨幣として流通することはなく、大名をはじめとする武家と朝廷や公家のあいだの贈答品でした。
令和の時代になっても富の象徴である大判は、今後も人気の高い金アイテムのひとつであり続けることでしょう。
大判小判マニアなら知っておこう!「5 大判小判作りの華麗なる一族「後藤家」
覚えておきたいふたつの「後藤家」
大判小判を知るうえで最初に覚えておきたいのが、
大判作りは「後藤四郎兵衛(=大判座)」
小判作りは「後藤庄三郎家光次(=金座)」
がそれぞれ担当していたことです。
もともと後藤家は室町時代から続く豊臣秀吉にも重用された刀装具(小柄・目貫・笄)を作ってきた京都の金工(彫物)一族でした。
徳川家康が貨幣統一に取り組んだとき江戸に召集されて、大判小判の製造をまかされることに。
もちろん、あくまで大判小判製造の決定権は幕府にありましたが、実際の製造監督や費用の管理は後藤家が実権を握っていました。
後藤庄三郎と徳川家康の切っても切れない関係とは?
金座を任された後藤庄三郎(橋本庄三郎)は、そもそも後藤宗家5代徳乗の一弟子に過ぎませんでした。
後藤の名を名乗り金座を任されるまでになった経緯には、徳川家との深いかかわりがありました。
まずひとつめが、後藤庄三郎が関ケ原の合戦の軍資金調達に成功したことです。
おそらくは米相場によって資金を調達したことと推測されており、この功績によって金座の長である「金銀改役(きんぎんあらためやく)」に抜擢されることとなりました。
これより以後江戸時代を通じて後藤庄三郎が小判製造の実権を握ることとなります。
もう一つが家康もしくは2代将軍秀忠の手がついた女性(大橋の局)を引き受けたことです。
後藤庄三郎宅に入った時、彼女はすでに子供を宿しており、徳川家は後藤庄三郎に大きな借りを作ることになりました。
後藤庄三郎家の断絶
徳川家のバックアップにより、絶大な権力を握った後藤家もいよいよ断絶の時を迎えます。
1810年に11代の光包が不正を問われて三宅島に流罪になったのです。
後藤庄三郎家は断絶し、金座の長である御金改役の職も解かれました。
その後は庄三郎家の分家であり銀座年寄役を勤めていた後藤三右衛門家の7代目方至が後を継ぐことに。
しかしまたもや不幸が襲います。
養子である「光亨(みつあきら)」が後を継ぎ御金改役に就任した者の幕府を批判し奢侈令に背いたとして死罪となってしまいました。
庄三郎家とおなじく三右衛門家も断絶の憂き目となり、結局最後の御金改役となったのはは大判座をつとめてきた後藤四郎兵衛毛でした。
就任した吉五郎は最後の御金改役となったのです。
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