シャネルの前デザイナー「モードの帝王」カール・ラガーフェルド
2019年2月19日、世界中に激震が走りました。「シャネル」のアーティスティック・ディレクターを長年勤めたカール・ラガーフェルドが85歳で死去したと報じられたからです。
ファッション業界で「モードの帝王」と呼ばれ、「生きるレジェンド」だったカール・ラガーフェルドの死は、ファッション業界だけでなく、世界中の人々から惜しまれました。
「シャネル」のデザイナーだけでなく、「フェンディ」、自身のブランドである「カール・ラガーフェルド」を手掛けていた彼は世界一多忙で偉大な人物でした。
多才な能力に恵まれ、移りゆくファッションの世界で70年にも渡り活躍してきたカール・ラガーフェルドの軌跡をたどります。
目次
カール・ラガーフェルドの経歴
カール・ラガーフェルドは1933年生まれ、ドイツのハンブルク出身。裕福な家庭に育ち、14歳の時にファッションを学ぶ為にパリに移りました。16歳で国際羊毛事務局主催のデザインコンクールのコート部門において優勝し、ピエール・バルマンにその才能を買わて「バルマン」のアシスタントとしてキャリアをスタートさせました。
「バルマン」にて、3年間働いた後、「ジャン・パトゥ」に移籍、その後「クリツィア」、「シャルル・ジョルダン」、「ヴァレンティノ」を渡り歩いた後にオートクチュールのあり方そのものに失望して、ファッション業界を離れアートを学ぶ為にイタリアに移り住みました。
イタリアで3年間アートを学んだ後、1964年に「クロエ」と契約。「クロエ」では1978年までデザイナーとして活躍しました。1967年に毛皮で有名なイタリア・ブランドの「フェンディ」のデザイン・コンサルタントに就任。「フェンディ」では亡くなるまで54年間、指揮を取りました。
多数の名だたるブランドで活躍してきたカール・ラガーフェルドですが最大の功績はやはり「シャネル」での成功です。ガブリエル・シャネルの死後、低迷していたシャネルを見事に再構築することに成功し、王道ブランドとしての地位を確立しました。
1983年にアーティスティック・ディレクターに就任したカール・ラガーフェルドは時代に見合った革新的で斬新なデザインで世の女性を魅了し、90年代にはシャネルブランドの地位を揺るぎないものにしました。
「シャネル」のデザイナーに就任し、「フェンディ」を仕切る一方で、1984年には自身のブランド「カール・ラガーフェルド」を立ち上げていることにも驚きます。
カール・ラガーフェルドは亡くなる直前まで2月発表の「フェンディ」のウィメンズコレクションの制作に取り掛かっていたそうです。「シャネル」のプレタポルテとオートクチュールのコレクションを年に計8回、「フェンディ」のコレクションを年に4回、自身のブランド「カール・ラガーフェルド」のコレクションの制作も同時進行で自ら行っていました。
カール・ラガーフェルドは85歳で亡くなるその時まで、多忙を極め、ファッションに捧げた人生でした。
カール・ラガーフェルドとシャネル
1983年にカール・ラガーフェルドはシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任。
当時パリでシャネルの服はファッションに敏感な若者達からは過去古いファッションとされていましたが、カール・ラガーフェルドは時代に見合う斬新で革新的なデビューコレクションを発表。ハイセンスで最先端のデザインを提供して低迷していたブランドを見事に蘇らせました。
カール・ラガーフェルドがアップデートしたシャネル
カール・ラガーフェルドは「CCマーク」や「カメリアの花」、といったブランドのアイコンを積極的に取り入れガブリエル・シャネルが作り出したエッセンスを時代に見合った形でデザインに取り入れました。ブランドを象徴するアイコニックなデザインは若者に受け入れられ、瞬く間に大人気となりました。
ガブリエル・シャネルが膝を出すことを下品として膝下丈に固執していた一方で、カール・ラガーフェルドはミニスカートを発表。コンパクトなツイードジャケットにミニスカート、インパクトのある小物使いなど過去のスタイルを時代に見合う形でアップデートしたスタイルを次々に提案し、若い女性に広く受け入れられるようになりました。
90年代にはシャネルの洋服や小物をこぞって身につける「シャネラー」が出現。シャネルブランドは社会現象になるほどの影響力を持ちました。
クラシック・チェーンバッグを発表
「シャネル」を代表するバッグ「11.12 クラシック・チェーンバッグ」はガブリエル・シャネルが1955年に発表した「2.55」をカール・ラガーフェルドが再解釈して1983年に発売されました。
「11.12 クラシック・チェーンバッグ」は「2.55」を一目で「シャネル」とわかるようにアップデート。クラスプ部分に象徴的なCCマークを施し、ショルダーチェーンにレザーを編み込みました。ブランドロゴを象徴したこのバッグは、瞬く間に大人気となりました。
「11.12 クラシック・チェーンバッグ」の2021年現在の定価は発売当時の4倍以上になっており、その価値は上がり続けています。
メティエダール・コレクション
「メティエダール」とはフランス語で「芸術的な手仕事」という意味です。
シャネルの「メティエダール・コレクション」とは1985年以降シャネルの傘下にあるフランスの伝統的なクチュリエの職人技を讃えて3年に1度発表されるコレクションのことです。
代表的なアトリエには刺繍を手がける「ルサージュ」、コスチュームジュエリーの「デリュ」、羽飾りやカメリア製作の「ルマリエ」などがあります。
2002年にカール・ラガーフェルドの指導の元、「メティエダール・コレクション」は、スタートして以来3年に1度発表されています。
カール・ラガーフェルドはアトリエの持つ伝統的な技術や職人を多額の資金を投じてシャネルで保護しました。革新的で斬新なデザインを次々と生み出す一方で、ブランドの伝統やガブリエル・シャネルのDNAを継承する事も決して忘れていませんでした。
ファレル・ウィリアムスとのコラボレーション
カール・ラガーフェルドはアーティストのファレル・ウィリアムスとの親交が深かったことで知られています。
2014年にシャネルの広告キャンペーンの曲の作詞作曲をファレル・ウィリアムスが手がけて以来、彼はシャネルブランドの広告塔として活躍しています。
ファレル・ウィリアムスは2017年に「ガブリエル・ドゥ・シャネル」の広告フィルムに参加したり、同年に協業してスニーカーを発表。世界限定500足に対して12万人の応募があり、プレミアがつく超レアアイテムとなりました。
2019年、カール・ラガーフェルドが発案して後継者のヴィルジニー・ヴィアールが歴史に残るファレル・ウィリアムスと協業したカプセルコレクションを発表。ブランド創設以来初のアーティストとのコラボレーションは話題となり大成功を収めました。
後継者ヴィルジニー・ヴィアール
カール・ラガーフェルドが「シャネル」のデザイナーに就任して4年後に、インターンとして入社したヴィルジニー・ヴィアール。二人は出会って以来30年に渡り仕事のパートナーとして信頼関係を築き上げました。
1992年にカール・ラガーフェルドが「クロエ」に移籍すると、ヴィルジニー・ヴィアールも「クロエ」に移ります。そして5年間「クロエ」に在籍した後、カール・ラガーフェルドと共にヴィルジニー・ヴィアールも「シャネル」に戻ったところから二人のビジネスパートナーとしての関係性の深さを伺い知る事ができます。
ヴィルジニー・ヴィアールは表に出ることは好まず、カール・ラガーフェルドからデザインのデッサンを受け取ると生地を選定し、チームを取り仕切り、デザイン、製作において幅広く仕事をこなしました。そして製品の制作だけでなく、カール・ラガーフェルドの秘書的な事務作業まで担当していたそうです。
カール・ラガーフェルドはヴィルジニー・ヴィアールのことを「必要不可欠な存在であり、右腕でもあり左腕でもある」とコメントしています。
2019年2月19日に、カール・ラガーフェルドが亡くなった同日、「シャネル」は後継者にヴィルジニー・ヴィアールを任命しました。シャネルのCEOブルーノ・パブロフスキーは「ガブリエル・シャネルとカール・ラガーフェルドのDNAを受け継ぐもの」とコメントしています。
いかにカール・ラガーフェルドとメゾンが彼女に信頼を寄せていたかを伺い知ることができます。
カール・ラガーフェルドとファッション
カール・ラガーフェルドは彼自身がファッションの最先端で流行を作り出す人物でもありました。彼が好んだファッションに注目したいと思います。
シグネチャースタイル
カール・ラガーフェルドといえば白髪のポニーテールにサングラス、グローブをはめた手の指にはクロムハーツのリング、高い襟の白シャツといったスタイルがシグネチャーでした。
サングラスはカメラのフラッシュから目を守る為で、高い襟の白シャツは首回りが年齢が出やすい箇所なので隠す為に着用していたと言われています。
指にはクロムハーツのリングを重ね付けしていました。カール・ラガーフェルドは無類のクロムハーツ好きで全てのリングを所有していると公言していました。
ディオールとラガーフェルド
「ディオール」はカール・ラガーフェルドを語るのに欠かせないブランドの一つです。
カール・ラガーフェルドがデザイナーを志したのは、幼い頃に地元であるハンブルクで行われた「クリスチャン・ディオール」のショーを見て感銘を受けた事がきっかけです。パリに移り住んだカール・ラガーフェルドはファッションを学び成長を遂げていく過程で、ムッシュ・ディオールに認められ親交を持つようになりました。
2000年代に、カール・ラガーフェルドは100キロ超えの体重を13ヶ月で43キロ落とす過酷なダイエットに成功します。ダイエット経験を書いた自著「The Karl Lagerfeld Diet」は世界的なベストセラーとなりました。
ダイエットの理由はエディ・スリマンが手がける「ディオール・オム」の細身のスーツに魅了されて、それを着るためだったとコメントしています。当時、新生デザイナーとして注目を浴びたエディ・スリマンでしたが、カール・ラガーフェルドは進化するファッション業界の中で、新しいスタイルや注目されているデザイナーの作品を自ら取り入れることで常に最先端で居続けました。
写真家でもあったカール・ラガーフェルドはエディ・スリマンからクリス・ヴァン・アッシュに引き継がれた「ディオール・オム」の広告の撮影を引き受け、話題となりました。
2012年、「ディオール」のウィメンズ・アーティスティック・ディレクターを長年勤めたジョン・ガリアーノの後任としてラフ・シモンズが就任した際も、彼の初のオートクチュールコレクションを見て、辛口のコメントをしながらラフ・シモンズのことを「ディオールのデザイナーに最適で彼以外に代わりがいない」とコメントしています。
まとめ
カール・ラガーフェルドはファッション業界で70年以上に渡り活躍し、移り変わるトレンドの最先端に居続け、たくさんの人から愛された最も偉大な人物でした。彼がファッション業界にもたらした影響力は計り知れません。
亡くなる直前まで「フェンディ」の2019-2020秋冬コレクションの製作に取り掛かっていて、生涯現役だったカール・ラガーフェルド。ここまで働き者で、多大な影響力を持つデザイナーは他には居ないのではないでしょうか。
カール・ラガーフェルドの意志を引き継ぎ、彼のDNAを継承したとされるヴィルジニー・ヴィアールによる新生「シャネル」が今後どのように進化していくのか注目せずにはいられません。